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帰省しただんなの実家に津波が来て避難した話

いつもどおりの帰省のつもり、でした。

2023年12月31日、だんなさんの実家、石川県白山市に帰省しました。最寄りの駅は北陸本線の美川駅というところです。

白山市。地方で言うと加賀地方、らしい。
美川駅

ご承知のとおり翌日、2024年1月1日に地震が起こり、私たち家族は生まれて初めて避難ということをしました。できたこと、できなかったことが色々あるので、振り返っておこうと思います。

16時頃に地震の第一波が来たときは、テレビのついた台所兼居間のヨギボークッションでぐうぐうおひるねをしていました。おなかがいっぱいになった嫁の昼寝が許される、素晴らしい婚家です。まあまあの揺れが来て目が覚めました。揺れたねえ、でかかったねえむにゃむにゃ、と言いながらまた寝入ろうとしたときに、一斉に警告音が鳴り響きました。
\ビャービョービャービョー/
\地震です 地震です/
\ヴァヨヴァヨヴァヨヴァヨ/
ありゃ、という感じでさすがに起き上がって間もなく、でかい揺れが来ました。ソファの上の棚に飾ってあった置物が揺れて、寝そべっていただんなの上にゴンゴン落ちてきました。だんなのママが電磁調理器にかけていた鍋のお湯がバチャバチャと床に溢れ、慌てて私がシンクへ運んで移しました。できたことはそれだけでした。もっと揺れが大きかったら、食器棚や食器籠の器が水平に飛んでママを直撃していたと思います。一番正しい行動は、テーブルに収まっていた椅子をすぐ引っ張り出して、ママと一緒にテーブルの下へ潜る、あるいはもっとひどい揺れならすぐ外へ出ることだった、と後から思いました。

とりあえず治まって、だんなの妹のあやちゃんも二階から降りてきました。「怖かった…」「いろいろ落ちて割れた…」
見ると廊下にもいろんなものが落ちて、割れた破片が飛び散っています。テレビの速報でマグニチュード7以上とか、最大震度7とか言い始めたのを眺めていると、アナウンサーが尋常でない声でがなり始めました。
「津波が来ます! 今すぐ逃げてください!
「高い所へ避難してください!」
「大津波警報が出ました! 東日本大震災を思い出してください! 今すぐ逃げてください!」
マジか。
輪島に5m、佐渡に3mの津波があと10分で到達、などと表示され始めました。私はここが白山市というのは知っていましたが、テレビに表示された地方区分のどれに当たるのかが分かりません。ママいわくここは加賀地方であると。
「加賀地方 3m」
来るがな。
確か16:50頃に到達、と表示されていたと思います。地図に示したとおり、ここはかなり海の近くです。ママが言いました。
「大丈夫や。ここは海抜9mやから、3mの津波なら大丈夫。」
いやいやいや。
3mの壁が1枚来るのではない、高さ3mのすーーーげーーーーでかい直方体の水が来ると思いねえ、と主張しました。でもご近所さんも全然出とらんし…と逡巡しているママを尻目に、だんなと私は上着や荷物を取りに行きました。ガラスの破片を避けてこわごわ家の中を歩きながら、あああ熊本で地震に遭った友達が、あの日以来枕元に靴を置いていると言ってたなあと思い出しました。
出かける気満々の我々を見て、ママとあやちゃんも避難する気になってくれたようです。
さてどこに逃げるのか。何しろ私とだんなには土地勘がありません。頼みの綱は地元勢です。ママいわく、海抜は我が家のあたりが比較的高い。避難場所は近くの中学校で、もっと近くの信金の屋上も高さがある、と。しかしなにしろ元日の夕方、中学校も信金も開いてないし、津波到達前に鍵が開く保証がありません。

このとき、私の脳裏には一つの記憶が浮かんでいました。あの東日本大震災の検証ドキュメンタリーで、あと数分で津波が来るという状況下、目の前の吹きさらしの屋上を選ぶか、それより低い屋内を選ぶか、の択一で後者を選んだ方々が全滅したという報告です。私はとにかく高さを稼ぎたかった。しかし今この瞬間に我々が確保できる最高地点は、どうも我が家の二階なのではないかと思えてきました。東日本の映像がぐるぐる回ります。木造の家屋は根こそぎ押し流され、後に残ったのはコンクリートの建物だけでした。

駅に行くか、と思いました。駅は我が家より海から遠いけど、海抜はうちより低い。しかし頑丈なのと、いま開いていることは間違いない。もう時間がありません。駅に逃げることにしました。

たぶん我が家より駅の方が低いけど頑丈。高低差はだいぶ誇張しています。

駅に向かって歩いていると、走行中の車がスピードを緩めて、中からおじさんが呼びかけて来ました。
「どこへ行くんね!? 高い方へ行かんと!」
勾配を下りかけている我々を心配してくれたのでしょう。「駅は!? 駅はダメかな!?」と返すと「まあ駅でもええけど。はよう逃げや!」と言って車は走り去って行きました。
正解はないのです。この時強く思いました。いざという時、正解は誰にも分からない。それにしても、避難中わざわざスピードを落として他人に声掛けしてくれたおじさんは立派です。私にはこれができません。

美川駅。ガラス張りなのが心許ない。

駅に着くと同じように避難してきた家族がいくつかいましたが、少ないな、と思いました。我々の避難が早いのか、みんな中学校に行っているのか。美川駅は基本的に無人駅で、アナウンスもないし暖房もついていません。2階までしかないのかな、3階があれば行きたいのだが、とウロウロしているうちにだんだん人数は増えてきました。
隣の人がスマホに向かって絶叫しています。
「あんたぁ何しとれんねぇ! はよう逃げな津波が来るよぉ!」
電話の相手は車で逃げているが、よりによって手取川の河口の橋で渋滞しているらしいのです。私は隣の人に同情しました。車で逃げるのは絶対ダメです。もちろんお年寄りがいたり、それぞれの事情があるとは思いますが。
エレベーターが自動的に止まっているのか、車椅子とおじいちゃんを担ぎ上げて階段を上ってくる男の人。一度避難してきたのに家族がまだ残っているらしく、「もう…何をしとれんねぇ!」と舌打ちしながらまた道路へ飛び出して行くおじさん。
みんな海の方向を見ていました。少し高台になったそのあたりから、家々が押し流されてこちらにやって来るさまを私は想像していました。そうなったらこのガラス張りの駅舎はもたないな、今日が人生最後の日まであるな、と思い、家族みんなで一緒にこれを迎えるならまだ幸せな方だと思ったりしました。自分を落ち着かせようとしていたのだと思います。

情報源はスマホだけでした。アプリのラジオはまだ逃げてくださいと連呼し続けていて状況の把握には使えない、ニュースサイトの情報は遅すぎ、気象庁の地震情報は細かい津波の到達状況を知らせてくれるが15分くらいのタイムラグがある、ツイッターはフェイク臭がすごくて信頼できない。私が知りたかったのは今まさに津波がどの高さでどこに到達しているのか、でした。YouTubeの生中継映像がリアルタイムで確認できて助かりました。金沢港に第一波40cm、という情報を見た時に初めて安堵しました。しかし日本海は朝鮮半島から戻って来る第二波の方がでかい、とアナウンサーが警告しています。地震が来たのが16時過ぎで、駅に避難したのが16:30くらい、第一波を確認したのが17時頃でした。第二波がいつ来るのかはさっぱり分かりません。18:30まで暖房も椅子もない駅に突っ立っていると芯から冷えてきました。ママとあやちゃんはいろいろ割れた家のことが気になるらしく、帰りたそうにしています。これででかい第二波が来たら元の木阿弥やなあと思いながらも、まあ疲れたし、帰ることにしました。外はもう真っ暗でした。

破片を片付けたり、びちょびちょの床を拭いたり。正月のご馳走を広げる気にも風呂に浸かる気にもなれず、テレビを眺めていました。「津波はまだ来るかもしれません、家には戻らないでください、避難している場所から離れないでください」というアナウンサーの呼び掛けにずーっと罪悪感のようなものを抱き続けました。第二波が70cm、第三波が90cmという報道を最後の記憶にテレビをつけっぱなしにしてうつらうつらしていたら、23時頃に「地震です!地震です!」とまた高い声が聞こえて跳ね起きました。震度7と表示されていますが、全く揺れた覚えがありません。震度7が本当ならまた津波を心配しなければなりません。NERVのアカウントが一番最初に「誤報っぽい」と報じてくれて安心しました。この非常時、誤報の一つや二つは仕方ありません。また寝て、明け方に津波警報が注意報へ変わったのを確認しました。翌朝、箱根駅伝をテレビでやってくれて本当に嬉しかったのを覚えています。

我が家の被災はこれで終わりました。輪島や珠洲の被害を思うと塵にも等しい被災でしたが、私には大きく響きました。東日本大震災の教訓でしょうか、私は「正常性バイアス」をとても恐れています。非常事態が起きても、まあ大丈夫やろと日常感覚で捉えてしまうのが正常性バイアスです。駅で私が死を覚悟していたとき、だんなさんはそんなこと思いもしなかったそうで、バランスとしては二人合わせてちょうどよいのかもしれません。

結局、どこに逃げるのが正解だったのか。
1月3日になって、海抜計測アプリを入れてだんなさんと近所を歩きました。正解は中学校でした。我が家より海抜は2m低いけど、4階建ての校舎があります。次に津波が来たら、窓を破るトンカチを持って中学校に行くんだよ、とママとあやちゃんに言い含めて、石川県を後にしました。
1月5日に出勤すると、私の帰省を事前に知っていた同僚が涙目で迎えてくれて、彼女達が私のスマホの電源を気にして連絡を控えていたことを知りました。無事ですとLINEに一報上げるべきだった。私は自分のことしか考えていなかった。

地震が起きた瞬間、正しい行動が取れなかった。津波が来ると分かっても、正しい場所に避難できなかった。心配してくれる人達の気持ちを早く和らげることができなかった。少なくとも今回はそれを知ることができました。

あと一つ。寝たり起きたりを繰り返した当日夜中、被災してない地域の平和な日常ツイートを見ることは、私にとって慰めになりました。

もっと大変な思い、悲しい思いを今もしている方々がいます。正直に言うと、そのニュースをあまり見ることができません。被災された方々の悲しみが、少しでも早く和らぐことを願っています。

おわり


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