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【読書レビュー】闇の子供たち/梁石日

先日、映画「サウンド・オブ・フリーダム」を観ました。
アメリカで児童売買を捜査していた男性の実話を元にした映画です。

実は2年ほど前に児童売買について調べた時に、この映画の制作費をクラウドファンディングしているのを見かけたことがあり、完成を待っていた作品でした。

とてもよくできた作品で(もちろん悲惨な話ではあるのですが)、原作本はないかと探したけど見当たらず、思い出したのがこの本でした。

2年前に児童売買について調べたのは、「闇の子供たち」の映画を観たからでした。
友達が「今まで観た映画の中で最も印象に残っている映画」のひとつとして勧めてくれたものです。

「闇の子供たち」も「サウンド・オブ・フリーダム」も、小さな子供が親に売られたり、誘拐されたりして売春させられたり臓器を取られ尽くされる、この世界のどこかで毎日起きている(しかも近年急増している)犯罪を描いています。

映画の「闇の子供たち」は、あまりにも子供たちのさせられていることの描写がリアルすぎて、子役の方達がこの撮影の数年後に、自分たちが演技としてやっていた動作の意味を理解できるようになった時にトラウマになるのではと心配になるレベルです。

この点、今回は原作を読んでみて、こういうのは文字表現の方がいいなぁと感じました。

しかし、映画には、原作にはない設定や演出もあり、特に江口洋介さんがすばらしいです。
人の心の闇を描いた秀作です。

「サウンド・オブ・フリーダム」では、同じ題材でも、子供たちがどんなことをさせられているのかは一切映りません。
わたし達は、例えば、証拠として押収したビデオを見る捜査官の男の目に光る涙で、それがどんなに痛ましいものかを悟ります。

小さな子供たちが、目を背けたくなるようなおぞましい暴力にさらされているのに助けてあげられない無力感に、大人としての良心、魂が傷つくということに焦点を当てています。

両方の映画の間には10年以上の時があり、その上、日本とアメリカとでは、エンターテイメント業界における子役の方の扱いにも差があるのかなとも思います。

映像と文字による表現の違い、映像だからできること、文字表現だからできること。
こうしてひとつの題材を多角的に見れることの有意義さ。

「闇の子供たち」も「サウンド・オブ・フリーダム」も、児童売買というマフィアも関わる国際的な犯罪に立ち向かう人々が出てきます。

「闇の子供たち」ではタイのNGOで働く日本の若い女性が、「サウンド・オブ・フリーダム」では、アメリカから南米へ、安定した仕事を投げ打ってまで子供たちを助けに行く男性が主人公です。

選挙にも行かない、自分の半径数キロ内のことしか興味がないという人も多い世の中です。
世界で年間何万人もの子供がいなくなる中でほんの数十人を助けたところで仕方ない、外国人のあんたらに何ができるのかと言われながらも、彼らは懸命に自分のできることを最大限しようと時に命懸けで立ち向かいます。

この世界の闇を見てしまって傷ついた、自分の魂を救うために。

誰の心の中にも闇はあります。
わたしにもあります。
わたしは子供の頃から、残虐な事件や戦争に強い興味があります。
わたしの中にも闇があるからだと思います。
でも、世界は闇だけでも光だけでもない。
どちらに焦点を当てるのかは自分で選べます。
平和な日本にいたら、闇から目を背けることもできるでしょう。
でも、人が最も美しい時は、彼らのように立ちはだかる闇の前で、毅然とした態度で振る舞っている時だと思うのです。
わたしはその、人として最も美しい姿を見たくて、闇に惹かれるのかもしれません。

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みき
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