60時間。6時間。
年末年始は夫婦で妻の実家で過ごすことがこの10年の恒例である。マンションという逃げ場のないフラットな空間で、言ってしまえばアカの他人である父との3人での生活を送る妻がひと息をつける希少な機会でもある。
昨年末12月29日から今年1月3日まで、いつものように北海道に戻った。妻が一日前で往路のフライトを予約していたり、帰りの3日が大雪で函館本線の特急が間引きされ、大事を取って本来指定席を購入していた列車より1本前の、深川から乗車したカムイが朝の東西線並みの混雑具合であったりと、往来で小さな想定外はあったものの、滞在中は穏やかな時間を過ごした。
高齢者を残して、比較的長く家を空けることに対して、妻には多少気が引けるところがあるようだが、親が高齢であることは互い様で、父が自分の足で外出ができる限り、僕はまったく気にも留めていなかったし、寧ろ息子夫婦との窮屈な日常から開放される有り難い時間であると、父そのものも捉えていたと思っている。
3日は最終便近くの羽田行きであったため、浅草の家に着いたのは深夜0時を超えていた。僕自身、妻が家を空けるときがそうであるように、不在中どんなに荒んだ使い方をしていても、綺麗好きな妻の気分を害さぬように妻が帰宅するときには、さも何も使わなかったかのごとく、しれっと出発前の状態にしておくのは親子の濃い血の繋がりを感じるルーティンであったが、今回は玄関の靴がしまわれておらず、また電気は灯けっぱなしで、全体的に臭いもした。
きっと我々の戻りを一日勘違いしたのだと妻の顔色を窺いつつ中を進むと、開いているトイレの壁や床に汚物が撒き散り、風呂場は恐らくその時汚してしまったであろうパンツやズボン類を洗っている状態で放置してあった。
ただならぬ気配を感じ父の部屋を覗くと、父がベッドの横で倒れていた。父の足でドアを塞いでいるので中に入ることが出来ず、ベランダから回ると、足の踏み場もないほど物が散乱し、恐らく動かなくなった身体で布団や毛布を手繰り寄せ、しかし露出している箇所から冷えて身体を震わせていた。どうしたのかと訊いても、何かを訴えているのだが、ほとんど言葉にならず、僕がわかったのは「寒い」と「喉が乾いた」だけだった。救急車を呼び、周辺に稼働出来る署がないとのことで月島から来てくれることになった。状況を伝えるものの、我々自身が今の状態を飲み込めていないので、聞いている救命士の方に我々の意思が通じていたかは疑問だ。
話は変わるが、昔横須賀の米軍基地の開放日に、夕方基地内で倒れた初老の男性がいて、救急車が到着し措置をしていた。花火大会が終わりゲートに戻るときにもまだ救急車は出ておらず、あれから2時間以上が経過していたので怪訝に思った記憶があるのだが、今回の件でやっとその時の状況が納得できた。
父が救急車に乗せられてから3時間半、マンションの前で待機した。受け入れる病院がなかったのである。高齢で、ワクチン未接種、意識障害、原因不明、更に三が日の夜、といういくつかの要因が重なったのであろう。品川区、大田区の病院まで問い合わせのエリアを広げてくれたが、全て断られ、最後は月島消防署で多少無理がきく聖路加病院が、診療のみ(入院は不可)を条件に受け入れてくれた。
発見当初はまだ言葉として聞こえなくもなかったが、時間の経過と口に入れた水が喉に溜まってしまったため、父が口から発するものは完全に理解が出来なくなった。ただ、不自由な手でメモを書く仕草を救急車に運ばれる前からしており、ペンを渡し僕が持つメモ用紙に書くよう促すのだが、書くという意思は伺えず、このことは家にいるときに頻りに部屋にある箪笥の上方を指さしていたジェスチャーとともに、父が必ず私に伝えたいことであることは認識しつつも、その時は分かってあげることが出来なかった。
救命士の方からは延命措置についての確認が何度かあり、これについては昔から父に何十回、何百回も聞かされていたので一切不要と答えたが、車内で弱っていく父を目の前にしても、まだ奇跡的に回復する望みが消えることはなかった。
聖路加に着いて、血液検査をしたら新型コロナウィルスに感染しており、それに伴い重度の肺炎を患っていると、救命士の方を通じて伝えられた。また、この病院はあくまで治療を前提に受け入れをしてもらっているため、保健所を通じて次の受け入れ先を探していることも聞かされた。
3時間半の車内で何度熱を測っても36度台であったし、何より自分の家族から感染者が出ることなど露にも考えたことがなかったため、完全に不意をつかれた。
ただ、この宣告にて最後の望みが潰え、逆に次へ運ばれることなく、聖路加という伝統と格式のある病院にいる間に息絶えてくれるよう願う気持ちに自然と切り替わった。
母の死後20年が過ぎ、昨年になって父に恋人と言える人が出来た。「文さん」という中学、高校の同級生で、70歳を迎える前の同窓会で再会し、ずっと手紙のやり取りが続いていたが、ついに会う決意をし、昨年9月、同窓会を名目に一人で大阪まで行き、何かしらの「一線」を超えたようだ。
それを境に通信手段も手紙から電話に代わり、夜8時の文さんからのラブコールが日課になった。日々熱は高じるようで、すぐにまた会いたいという流れになり、9月は、それこそ東京駅の新幹線ホームでの見送りまで我々が全てお膳立てをしたものだが、今回は恥ずかしかったのか一人で新幹線やホテルを手配し、2日前に我々に伝え、大阪に向かった。それが倒れる2週間前の話である。
9月の同窓会後は生きる気力に満ち溢れていた。酷いときは一週間近く外出せず、足の衰えは頭の衰えに直結すると盲信する我々夫婦をヤキモキさせたものだが、浅草寺へのお参りを日課とし、六区のドン・キホーテに寄り買ってくる黒霧島の紙パックのストックは常に充実していた。隣室から漏れてくる文さんとの電話からもお互い100歳まで生きようなどと、自分が何のために生きているのか分からないとこれまで口癖のように言っていたことが嘘のように気持ちが充実していることが伺え、特に年末は毎日何かしらのスケジュールが入り、日によってはダブルヘッターすらこなしていた。
好事魔多し、という言葉がある。
自身の信念でワクチン接種は拒んでいたので、コロナに対しては臆病なほどの姿勢でこの約3年弱は過ごしてきたが、世の中の風潮とともに自身の気分の高揚が気の緩みを生んだのか、年末のどこかでウィルスをもらってきたのであろう。
我々が29日の早朝に北海道へ向かう前、父と会話をしたのは前日28日の夜である。その時は特段変わった様子は感じられなかった。
31日に次兄とこの部屋で会っている。毎年、我々が不在の元旦は、次兄と青山の善光寺に初詣に行き、その後新橋の第一ホテルで食事をしており、今年もその予定をしていたのだが、たまたま前日に兄が浅草に来る用事があり、父に電話を入れてみたら、熱があり、体温計と風邪薬を買って来るように頼まれ立ち寄ったのだという。相当体調が悪く、トイレもひどく汚れていたと、後に兄から聞いた。結局1日の予定はキャンセルになったそうだ。
4日、救急車で運ばれる際に、マンションの防災センターの方が立ち会ってくれていたのだが、実は…という話で、1日、一階の郵便受けの前で父は失禁をして倒れていたという。救急車を呼ぶか尋ねたが、頑なに断ったので、センターのお二人で部屋まで運んでくれたという内容だった。
携帯の着信履歴を見ると、文さんからの不在着信が大晦日以後10数件続いていた。後ほど文さんに伺うと、31日夜の電話で次兄が来たことの話はしたが、その時は会話そのものが苦しそうで、父から治った後またかけるという約束をして電話を切ったのが最後だったそうだ。
我々が父を発見するまでの経過を辿ると、1日の13時頃、防災センターの方に部屋まで運んで頂いた後、便意を催したが便器には届かず、浴室で下半身を洗い、汚れたパンツ類を風呂桶に入れたまま浴室を出て、部屋に戻り、直後に身体が動かなくなった。発見時の父の下半身に何の着衣がなかったのはそんな状況だからであろう。そして、4日0時過ぎに我々が見つけるまで60時間近く、手が届く範囲で箪笥のあらゆる引き出しから何かを取り出そうとし、布団を手繰り寄せて寒さをしのいでいた、と想像している。倒れている父の手から1メートルほど離れたベットの上に置かれた携帯電話は、もはや扱える身体の状態になかったのであろう。
4日午前6時13分に父は息を引き取った。聖路加で終えられたのは見栄っ張りの父には相応しかったと思う。
東京都のガイダンスに基づき、通夜、告別式は行わず、父の遺体は葬儀社のみの立ち会いのもと火葬されることになった。
遺体は納体袋に入れられ、すぐに棺桶は密封された。せめて父の思い入れのあるものを棺に入れ込みたかったが、慌てて家を出た身としてやれたことは、子供時代からずっと冷えるのだという足先に靴下を履かせてあげる程度だった。
火葬される前に30分だけ、葬儀社で棺を通じての面会が出来ることとなり、翌日の5日、旅の途中で空中分解した愛媛での家族旅行以来、10数年振りに三兄弟で顔を合わせ、その後については浅草で話し合うことにした。
ところで、父の死亡当日、我々は浅草に戻り凄惨な状態にある部屋の掃除をしていたとき、頭から離れなかった父の2つのゼスチャーについて、やっと得心した。
生前、自分は遺言書を残しており、最期についてどうしてもらいたいかはそこに記してある、と父から繰り返し言われていて、兄たちもそれぞれの機会で同じ話を聞いていた。一緒に暮らしている身として、その内容について深く尋ねるのは、痛くもない腹を探られるようで避けてきたし、遺産もなく、希望は普段の会話で耳にしていることから内容は読まなくても想像はついていた。
父が意識を失うことなく「60時間」を耐えたのは、我々の顔を最後に見たかったからだ、と温かい言葉を掛けてくれる人が多かったが、実情は、元日の、我々が不在の中、救急車で病院に運ばれることを頑なに断ったことと同じ内意で、自分の知らない間に延命の措置が取られてしまうことに対する全身全霊での拒絶であり、我々を待ったのは只々その意思を伝えて欲しかったのである。
生への執着を持つようになってきた父がどこかの時点で死を覚悟したことがわかったことは、遺言書を読むことなく最終の判断を救命士の方に伝えた身としては正直なところ救われたし、惨烈な60時間も、父が世間に阿ることなく、自分の意志を貫いた86年の人生の一部として組み込んで良いものと考えられるようになった。
動かない身体で、必死に取り出そうとした遺言書などが入ったプラダのサイドバッグは箪笥の一番上の引出しの奥にあった。
そこに記されていたのは
1. 一切の延命措置は不要
2. 息子以外に自身の死を伝えるな
3. 葬儀代にかかる費用は3兄弟で均等に払え
という内容だった。
自筆で書き写したボードレールの詩が同封され、これが俺の心情であると書いた文書を長兄が読み上げて、不仲の二人の兄が、詩を残すくらいなら金を残せよと口を揃えたのは可笑しかったし、父の死を契機にバラバラな3人の関係の修復をしていきたいと心から思った。
7日、父は遺骨となって浅草に戻ってきた。
コロナウィルス感染症が健康で、生きることに前向きな肉体すら一瞬で死に至らしめる病であることは否応なく実感させられた。
重症化したのは、ワクチン未接種だからか、高齢だからかは分からない。
我々も兄も濃厚接触者であると思われるが、身体に変化はなく、抗原検査をした限りでは陰性だった。また、防災センターの方たちに感染がなかったと報告を受けている。
父の感染が判明した後、病院に状況を伝え、我々は濃厚接触者かと尋ねたが、「どちらとも言えない」という答えで、病院内の行動に制限はなかった。そして、いわゆる防護服セット(マスク、フェイスガード、手袋、モブキャップ、ガウン)を着用し、臨終の時まで父の横に立ち会わせてもらえた。看護師の方の格好はもう少し簡素な印象だったが、これで院内感染が起こったことはないと話しをしてくれ、遺体を納めた棺桶にすら密封を求めるような東京都の指針と最前線の医療現場には随分と乖離があるな、という印象だった。
今は悲しみよりも、この生活を12年間続けられたことの達成感が圧倒的に勝っている。エキセントリックな次兄との暮らしに疲弊していた父を、妻には甚大な苦労を掛けることになるものの、父が死ぬ瞬間に後悔は残したくないという一心で、預かることにした。三者三様の忍耐をベースに成立した生活ではあったものの、子無し夫婦の大きな成長と深い絆を構築出来たのだと自信を持って言うことが出来る。
一方で父との生活の幕引きがどのようになるのか、頭から離れぬ日はなかった。もちろん共同生活を決断したときにあらゆる覚悟を飲み込んだつもりではあったが、年金のみで暮らす生活者の介護は自身や周囲の狡さ、セコさ、或いは醜さと対峙せざるを得ない時間であり、考えるほど足はすくむばかりだった。
発見から息を引き取るまでの時間はわずか6時間。
父の最期は潔く、自身の醜さを露見させることなく我々夫婦は早速次のステージへ向かう準備に取り掛かっている。