バレエ小説「パトロンヌ」(51)
「ジゼル」公演の千穐楽の日、リカは劇場の前に人だかりができているのを訝しく思った。すでに開場時間は過ぎているはずだが、客入れをしている気配がない。
入り口にスタッフらしき男性が現れ、ドアを開けた。何か話しているが遠くてよく聞こえない。周りの「ええ〜っ?」という反応だけが伝わってきた。ざわつきながらもあたりの人々は劇場に吸い込まれていく。ミチルも流れに身を任せた。
チケットを取り出すところまで来ると、スタッフの声がようやく聞こえた。
「ダイアナ・ドーソンが足首を痛め、配役が瀬尾まさみに変更になっております。他の配役に変更はありません!」
(瀬尾まさみって、誰?)
ロビーには、瀬尾のプロフィールが貼られていた。なんと、バレエKに入ったばかりの新人だ。今回の公演ではジゼル役が3人キャスティングされていたが、その中にも入っていなかった。どうやらアンダースタディで稽古をしていたらしい。
「よかった。甲斐は出るのねー。ペアは3組いたから、他のペアに変わってしまうのかと心配しちゃった!」
後ろの声に、リカは思わず「そうですね」と答えた。バレエ公演では、原則として配役変更に対するチケット払い戻しはない。それだけ怪我が日常茶飯事であるという証拠でもある。今回、ジゼル/アルブレヒトはほとんどDD/甲斐だが、日数は少ないながら他のペアが踊る回もあった。しかし、甲斐の出演しない回は、チケット価格を3分の2ほどに下げている。
(バレエKの観客は、甲斐を観るためにお金を払っている)
バレエ団の主宰者であると同時に稼ぎ頭でもある甲斐は、怪我一つ、病気ひとつできない体なのだ。彼の肩にのしかかる重責に思いを致しつつ、リカは1階の客席へ向かった。
同じ頃、ミチルは3階へと階段を上っていた。足取りは重い。
(DDのジゼルが見たくて今日のチケットを買ったのに!)
その落胆は尋常ではない。ミチルは専業主婦だ。バレエのチケットは高い。気が乗れば1公演のチケットを何枚でも買い増すリカとは異なり、「1回見て満足する」ように自分の欲望をコントロールしていた。そのミチルが、今回は敢えて禁を犯し2回買ったのである。あの「セリフの聞こえる舞台」を見せてくれたDDがジゼルなのだから! あの至福になら何度でも浸りたいと思い、千穐楽のチケットを買った。それなのに……。せめてもの救いは、S席ではなく、一番安いB席だったこと。良席は完売していたことが、かえって幸いした。とはいえ客席に座っても、いつものような「開幕前のワクワク感」は全く感じられなかった。(つづく)