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読書雑報

バタイユ周辺③

 バタイユが生前果たせなかった本の企画に『聖なる神』というタイトルがある。翻訳家生田耕作はバタイユ著作集において、この幻の企画を復元しようと試みている。

バタイユ著作集『聖なる神』生田耕作訳 二見書房

  はじめに本書の表題について説明しておきたい。時期的にかなりな間隔をおいて、しかも独立して発表された作品、『マダム・エドワダ』、『わが母』、および『エロティシズムに関する逆説』を一冊に統合し、これに『聖なる神』の総題を冠したのは、おそらく、この邦訳が最初で  あり、訳者の独断によるものである。こうした大胆な措置に踏み切った理由は、この編纂方式が作者ジョルジュ・バタイユの意図をもっとも忠実に再現する方法であると、あえて判定した結果にもとづくことを、おことわりしておかねばならない。
(解説255P)

 つまり、バタイユ没後、その構成がメモされた一枚の紙片とこのメモから発展したと思われる一群の原稿束が発見されたことにより、名作「マダム・エドワルダ」を中心とする一冊の本の企画が明らかになったようだ。これは「マダム・エドワルダ」最初の地下出版から15年後の1956年、新版出版時にはすでに考え始められていたようである。

 訳者の手元にある、ポーヴェル社版初版本、『マダム・エドワルダ』は奇妙な造本体裁をとっている。まず扉にあたる第一ページに「聖なる神」を意味するラテン語Divinus Deusの文字が大きく記され、その裏面は空白、つづいて三ページ目に「マダム・エドワルダ」と記載された扉があらわれる。さらに本文が終わったあとに、再びDivinus Deusの文字が記されている。つまり「マダム・エドワルダ」は「聖なる神」という作品のうちの一部であり、その完結したところから、ふたたび「聖なる神」は始まるような印象を与えるのである。(解説257p)

 生田耕作がこの解説を書いた頃には未発表であったバタイユの遺稿該当部分の一部が現在では翻訳され(『聖女たち-バタイユの遺稿から』吉田裕訳 書肆山田)、我々はよりバタイユの企画に近い状態で読むことができるようになった。
 最終的に総題は『聖なる神』となり、巻頭は、あの、本文に匹敵するほど衝撃的な『マダム・エドワルダ』ポーヴェル社版の序文から始まる。

 悲鳴とともに、自らへの不寛容のなかに沈むことで、自らを無に帰する、この悲愴な省察の行きつく果てに、私たちは神を見出すのだ。これがこの不条理な小さな書物の意味であり、並外れたところである。この物語は、その属性を存分に発揮させつつ、ほかならぬ神を登場させている。けれど、その神は、あらゆる点で普通と変わりない一人の娼婦である。ところが神秘主義が言えなかったことを(それはそれを言いかけて、ひるむ)、エロティシズムは言ってのける。すなわちあらゆる方向で「神」の超越でなければ、「神」はなにものでもないと。卑俗な存在の方向で、醜悪と不純の方向で。究極的には、無の方向で…言葉を越えた言葉を、神という言葉を、言語に付け加えるときには、かならず仕返しされる。私たちがそれを行う瞬間に、その言葉は自らを超越し、その限界を目くるめく勢いで破壊する。その内容は何物の前にもたじろがない。思いもかけぬ至る所にそれは存在する。それ自体が並外れたものだからだ。すこしでもその気配を嗅ぎつけた者はたちまち沈黙する。さもなければ逃げ道を求め、自縄自縛に気づき、自分を無に帰することによって、神に似せる、すなわち無に似せるものを、自分のなかに探し求める。*2
 *2 これこそは笑いによって啓示された、また、制限とは無縁のものをあえて制限しない人間によって提示された、最初の神学である。読んだ日に真赤な印をつけたまえ、哲学者たちの文章で顔あおざめた諸君よ!哲学者たちに理解できぬやり方以外に、連中を沈黙させる人間が自己を表明する方法があるだろうか?(生田耕作訳)

 なんとも凄まじい序文である。まだ本文も始まらぬうちに、我々はカレンダーに赤い印をつけることを強いられてしまっている。この激烈な序文が書かれた経緯は『聖女たち』の解説に詳しい。
 1941年ピエール・アンジェリック名義で50部のみ出版された『マダム・エドワルダ』は1945年、挿絵を加えてもう50部出版されるものの、その後は著者さえ写しを失ってしまう程に忘れられていたようである。しかし1954年頃になって新版と英訳の話が持ち込まれる。

 彼はもはや写しを持ってはいなかった。しかし、翻訳しようという若いイギリス人の意図に応じて、彼は過日それを一部求めねばならなかった。これを機会に、彼はこの書物を読み返してみた。彼はそれを忘れていたわけではなかったが、テキストは彼に衝撃を与えた。なんぴともかくのごとく重大なものを書いたことはなかったと、すぐさま彼には思えた。(吉田裕訳 ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ続編の序文として準備されたと思われる断片」『聖女たち』98P)

 15年前の自作に対するこの「衝撃」が、あの序文を書かせたのであろう。しかも余波はそれにとどまらなかった。

「エドワルダ」という作品は、それを忘れかけていた作者に衝撃を与える。女主人公はすでに個別性を失って、恐怖のしるしのもとにいわば普遍化されてしまっている。けれどもこの普遍化のために、失われた女主人公の姿は、ほかの女たちのことを思い出させる。それが「エドワルダ」の続編の契機となったのであろう。続編は「エドワルダ」の作者であるとされたピエール・アンジェリックの自伝ー女性遍歴をめぐるーとして構想される。それは一九五四、五年ごろから着手されたらしい。
(吉田裕『聖女たち』解説99P)

序文に続き「マダム・エドワルダ」、そして次に「エドワルダ」の前日譚、ピエール・アンジェリックの少年時代を語る「わが母」(未完)が配置される。ここまでは生田耕作訳で、そして、母の死後の物語「シャルロット・ダンジェルヴィル」(未完)は吉田裕訳で読むことができる。いずれも未完とはいえ、と言うよりも、むしろ未完であるがゆえに、作家の思考の流れ、中断、試行といったものさえ、なまなましく伝わってくるようである。この感覚は以前、メルロ・ポンティの遺稿『見えるものと見えないもの』を読んだ時にも感じたことがある。交錯する断片に翻弄されながらも想像力をかき立てられる昂揚した時間…。
 付録の「エロティシズムに関する逆説」という論文は、『聖女たち』に収録されているいる断片を読む限り、かなり初期的な草稿しか残っていないようだ。一方生田耕作が留保付きで収録した同タイトルの雑誌掲載文は、サド、クロソウスキー、「O嬢」などに言及しながら、エロティシズム文学一般に関して語っている点が非常に興味深い。
 そして、企画には含まれないながらも同一の原稿群から発見された「聖女」と呼ばれる印象的な断片さえ我々は読むことができるのである。この断片では「鞭と女」というサド以降の典型的なアイコンを使った、到底サドには書けない(書こうと思わない)、バタイユならではの美意識に飾られた繊細な情景を見ることができる。

 今、鞭を見せてあげましょう。
 テレザは立ち上がって、ドアを開け、呼びかけた。
 ジョセフィーヌ、鞭を!
 はいってきた女は、最初現れたときのテレザのように、黒い服を着て、エプロンをつけていたが、それほど美しくも若くもなく、またそれほどきちんと身づくろいをしていなかった。彼女は一揃いの鞭を運んできて、ベッドの上に置くと、また出ていった。私は彼女が行ってしまったのが残念だった。
 テレザは今や活気づいていた。打つようにと彼女が私にさし出したのは、五本の長い房のついた鞭だった。私がそれを手にしようとしたとき、彼女はそれを自分の手にとり戻し、空を打って、蛇がしゅうしゅういうような音をたててみせた。彼女は鞭を床に落とすと、(シャンパンの)壜を取りあげ、あらたにグラスを満たした。彼女は自分のをすぐさま空にすると、目で私にも飲むように促した。私は彼女を見つめながら飲んだ。彼女は私に対しては、同じ空ろな視線を向けるばかりだった。さらにもう一度、彼女はグラスを満たし、私たちは、列車の出てゆくホームで舌打ちするような具合に啜り飲んだ。(吉田裕『聖女たち』33P)

 この、テレザの飲みっぷりに『青空』のダーティ=ロールの面影を見るのも、また一興であろう。
「遺稿」に対して起動される発掘、検証、様々な解釈。遺稿それ自体が持つ隠蔽性によって研究者、編集者、翻訳家は引きつけられ、その断片性が彼らの想像力を掻き立てていく。そしてそれら複合的な効果が、或る種の「迫力」のようなものを伴って最終的に我々読者に伝わってくるのだ。『聖なる神』という企画は未完であるがゆえに動き続けているひとつのプログラムとして、現在も機能しているようである。

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