『推し、燃ゆ』について
私が”報われない物語”に憧れる理由は、それが自分を重ねやすい”リアル”に感じられるからかもしれない。
突然だけど、新海誠監督の『秒速5センチメートル』が好きだ。光や雪、風に舞う花びらや水の表現といった新海監督の代名詞である映像美も魅力なんだけれど、不器用で報われない恋というセンチメンタルなテーマが自分の中のナイーブな部分を掴んで離さない。
以前「『秒速5センチメートル』はオタクの”これくらいの恋愛なら自分にもできたかもしれない”という夢を見させてくれる絶妙な加減で止めているのが人気の理由だ」と評している呟きを見かけて、胸に刺さった記憶がある。
(追記)↓検索したらこれだった。記憶してたより辛辣だった。
私が報われない恋の物語に魅力を感じる理由は、ご都合主義の純愛物語が現実にはありえないフィクションであることを身をもって感じており、ありふれたラブソングのような物語に辟易としているからかもしれない。
そういえば昨年大ヒットした瑛人の「香水」はフラれた人を歌った歌だったし、その前の年に流行ったのはOfficial髭男dismの「pretender」だった。世間全体が甘さ2割切なさ8割の恋物語を求めているようにも思う。
閑話休題、タイトルに書いた、芥川賞を受賞した宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』について語りたい。
『推し、燃ゆ』まとめ ※ネタバレあり※
はじめに物語の簡単なまとめを書きおくが、ネタバレがあるのでご注意を。まとめにしては少し長いが、ようやく能力の無い私を許して欲しい。なんなら読まなくてもいい。
主人公の女子高生・あかりの好きな男性俳優・上野真幸(以下、推し)がファンを殴ったというニュースから物語が始まる。
別の男性アイドルグループを推している友人・成美から「無事?」と訊ねられて「駄目そう」とあかりは返すものの、成美の推しの話を聞いたり軽口を叩けるくらいには気丈に振る舞っている。
あかりは信条として「病めるときも健やかなるときも推しを推す」と決めており、推しが起こしたトラブルにショックを受けるよりも、ネット上で彼を誹謗中傷する声にむしろ心を痛めていた。あかりは推しのことを綴ったブログを書いており、ラジオやテレビでの推しの発言を20冊以上のファイルに書き溜め、推しの人物像を解釈しようとするのを日々の活動としている。今回の件は、そんなあかりの”プロファイリング”した推しの像からは逸脱した行為であり、ずっと彼女自身の中でうまく解釈しきれずにいた。
あかりは昔から勉強が不得手であり、保健室で病院の受診を勧められ2つほどの診断名がついたが、薬が合わなかったことから何度も予約をバックれる。高校に友人がいないわけではないが、勉強ができなかったり授業に出なかったりで、交友関係はもっぱらブログの読者が中心であった。ライブやグッズの購入にお金がかかることはもちろん、人気投票の投票券や握手券を目的としたCDの大量購入も必要だったので、居酒屋のバイトは上限まで希望を入れて出していた。ただそのバイトは酔っ払いに絡まれる上、個人店のために激務で、時には肉体労働も伴う。なかなか要領よく仕事がこなせず、無断欠勤を繰り返した末に辞めてしまう。
推しのネット上での炎上は収まらず、人気投票は最下位になってしまい、あかりはさらにショックを受ける。推し活は激しさを増し、身体を壊しながらも推すことをやめない、むしろ辛さと引き換えに自分の存在価値が得られるかのように感じ始める。ブログは毎日更新していたが、やがてSNSを見るのさえ億劫になってログアウトしてしまう。
高校二年の三月に留年が決まり、あかりは学校を辞める。辞めた後も就活もせずに推し活ばかりを続けていたら、祖母の死もタイミングが重なって家庭内の雰囲気がギクシャクし居場所が無くなり、祖母の使っていた家で一人暮らしを始める。唯一の高校の親友・”推し友”の成美からは心配する声が寄せられる一方で、推しとデートする仲になった報告を受け、あかりは祝福する。
突如、推しが所属するグループを解散することを発表し、あかりは愕然とする。推しは数日前に女性との同棲疑惑をスクープされたばかりであった。その後の記者会見で推しは左手薬指に指輪をはめて登場し、ネットではさらに燃え、荒れる。結婚相手は過去に殴った女性ファンだという説も持ち上がる。そして、推しの住所が特定される。
推しの解散ライブであかりは思う。「推しがいなくなったらあたしは本当に生きていけなくなる。最後の瞬間を見とどけて手許に何もなくなってしまったら、この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。」と。
解散が突然のことだったのでしっかりとピリオドを打つことができないまま、あかりは最後のブログを書き進める。途中で詰まって散歩をしているうちに、ふらふらと彼女の足は特定された推しの住所へと向かう。特定されたものと同じマンションにたどり着きはしたが彼女は建物を眺めるだけで何もしない。
突然に建物右上の部屋のカーテンが開いて女の人が出てきて、あかりは慌てる。その部屋が推しの部屋であるかは不明だが、その女の人の抱える洗濯物に現実感を急速に感じ、あかりは「もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。」と悟る。
なぜ推しは人を殴ったのか、あかりにはそこが最後まで疑問のままであったが、そこが解釈できないからこそ、自分と推しが繋がっているようにも感じ、納得する。そして彼女は彼女の道を歩き出す。
アイドル論から『推し、燃ゆ』を紐解く
アイドル論にこの物語を読み解くヒントがあるのではと思い至って幾つかの書籍を当たってみた。
姫乃たま『職業としての地下アイドル』(朝日新書、2017年)によると、地下アイドルのファンを対象に、「アイドルとの恋愛についてどう思っているか?」という質問に対する回答は以下の通りだったそうだ。
1位「付き合いたいと思わない」25.0%
2位「ファンでいるだけで幸せ」24.0%
3位「本当は付き合いたいけど無理だと思っている」19.8%
4位「本当は付き合いたいけど自制している」16.7%
5位「本気で付き合いたい」2.1%
「その他」12.5%
あかりの友人である成美が少数派である”ガチ恋勢”である一方で、主人公であるあかりがこのランキングのどこにカテゴライズされているかは一概には読み取れない。強いていうのであれば「ファンでいるだけで幸せ」であろうか。推しの引退宣言により「ファンでいる」ことさえも許されなくなったことが、一線を超えるような行動にあかりを向かわせたようにも思う。
塚田修一・松田聡平『アイドル論の教科書』(青弓社、2016年)や、白川桃子『進化する男子アイドル なぜ大人の女性たちはアイドルを「家族」として選んだのか』(ヨシモトブックス、2016年)では「女性アイドルの男性ファン」と「男性アイドルの女性ファン」との違いに言及している。
男性ファンは推しとの距離を取っ払って接触したい、話がしたい、認知されたいと願ってアピールするのに対して、女性ファンは男性アイドルのメンバーの関係性(メンバー同士の「絡み」や「わちゃわちゃ」)に”萌え”を感じ、自己を推しに認識してもらいたいとは思っていない、むしろ「接触を避けたい」「”ファンタジー”だからこそ良い」のだと述べられている。
性別による推し方の違いはあれど、どちらの方がより愛が深いか、とかそういうことではなく、ある場合は恋人のような、またある時は家族のように感じられる存在がアイドルなのだ。
話が逸れるが、百合に挟まれたいオタク(♂)はいるが、薔薇に挟まれたいオタク(♀)は耳にしないのは、その推し方の違いが関係しているからかもしれない。
この点から鑑みるに、あかりが関係性に萌えを感じる描写はないがその推し方は基本的に女性ファン的であり、推しとの接触を試みる物語終盤は女性アイドルに対する男性ファンのような推し方である、と読み解くことができる。その変化(変容)の引き金となったのは、推しがいなくなってしまうことへの恐怖や寂寥感である。
一方で、アイドルとは少し異なる部分が本作の”推し”にはあるように思う。物語の中ほどであかりは推しは自分にとって「背骨」であると語るのだが、推しを自分の一部であるように感じる感覚は、アイドル論で論じられる男性vs女性を超越した考えであるように思う。この、自己の存在理由を推しという外部存在に投影している点こそが本作の新規性たる所以であり、芥川賞を獲得するに至った一つの理由であり、現代の若者が心のうちに抱える不安や絶望、それを打ち消そうとする葛藤と逃避の証だと私は思う。
推し方は人それぞれ
友人・成美推し方はあかりのそれとは異なり、”ガチ恋”であり、前述したアイドル論から言葉を借りて言うのであれば、徹頭徹尾、男性ファン的である。
しかしながら推しとのデートまで漕ぎ着けた成美の推し活をあかりは全く否定しない(実は成美は推しに気に入られようと二重整形の手術を受けている)。そこがあかりの美点であり、推しを持った経験のある読者を安心させる要素にもなっていると感じる。推し方は人それぞれなのである。
そしてまた、ある種の強迫観念に駆られているかのように推しを推すあかりが成美の推し方に疑問を呈さなかったのは、彼女自身に推しへの恋愛感情が無かったからではないかと思う。すなわち、推しとデートする、付き合うといったことは彼女の目標には無く、それが無いがために推しと上手くいっている成美に嫉妬心を抱かずに済んでいる。
友の幸せを喜んで応援している様子は、全体的に幼い精神性を感じさせるあかりの振る舞いの中でも際立つが、元々ブログ活動においても自律的であるなど、推し活に精通しているが故になのか筆者のこだわりなのか、成熟した振る舞いを感じさせる点には注目する価値がある。
それは恋愛ではないが信仰でもない
『推し、燃ゆ』は報われない物語である。
この物語は冒頭で述べた『秒速5センチメートル』のような恋愛劇ではない。恋というよりも信仰に近い(元々「神対応」や「聖地巡礼」など、オタク活動全般と信仰は近い位置にある)。
ただ一方で、推しが同性だったとしたらこの物語は少し違う方向に向かっていただろうとも思う。そう考えるとこれはやはり広い意味で"愛の物語"なのだと私は解釈している(”同性だったら愛の物語が成立しないのか”といったジェンダー論についてはひとまず横に置かせてほしい)。推しは主人公にとっては神に近い存在だが”会いに行ける神”とでも言い換えられるだろうか。
とはいえ、あかりは推しが芸能界を引退をして「推しが人になる」と表現する点を見てもそこに一般人とは異なる存在であると言う感情を持っているのは間違いない。それが恋愛感情を持ちつつ成り立つものなのかが問題なのであって、成美においては成り立つそれが、あかりにおいては成り立たなかったのではなかろうか。
作中においてあかりはさらに「お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけじゃない」し、「あたしが何かをすることで関係性の壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う」し、「何より、推しを推すとき、あたしという全てを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている」と述べている。
推しという人物の解釈を求めながらも、その解釈の過程にこそ自分の幸せがあることを理解しているあかりは、もはや悟りを開いているといっても過言ではない。悟りというとまた宗教感が滲み出てしまうが、その行為こそが推しを推すということであり、その行為をもってファンはその身に幸せを得るのだ。
その幸せをある種突然奪われる形で物語は終わりを迎えるが、その報われなさが故に、読者はそれをリアルに感じ、報われなさの中にも希望を見出して、あかりのその後を夢想したい気持ちになる。その読後感だけで、『推し、燃ゆ』が素晴らしい作品であると感じられよう。