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自分の好きなものに自信が持てない

20代後半になって、自分の好きなものに自信が持てなくなってきた

3月後半に発売された当初は毎日のようにしていたゲームを最近はほとんどプレイしていない
「物事に熱中しやすい一方で、その熱が何かのタイミングで急に冷める」ということが、そもそも多い性格ではあるのだが、長くファンでいられるもの、ずっと好きでいられるものというのが、ひょっとすると自分には無いのではないかと思ってしまう昨今である

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先週オンラインで友人と話していて印象的だった言葉がある
「周りからどう見られるかで自分の好きを定義してしまっている」

ほのぼの系の日常マンガが好きだったり
音楽だとロックが好きだったり
エスニック料理を食べるのが好きだったり
海外旅行が好きだったり
そうしたいろいろな「好き」は
純粋に自分の中から発露されたのだろうか
副次的に生み出されたものなのではないのか
そうだとすると、自分が本当に心の底からときめくモノは何なのか

そうした疑問が自分の中でなかなか解消できず、こうして思い付くままに文字に書き起こしてみている

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いわゆる"逆張り"をしてしまう傾向がそもそも自分には強い
みんなが好きなもの、流行りのものに関心を持てない
まだ話題となっていない、有名になっていないような絵師や作家、音楽や作品を好む傾向がある
そして、それらの良さが世間に広まり有名になると急激に熱が冷めてしまう

深夜番組がゴールデンタイムに進出した時のような、コンテンツそのものが大衆化してしまい、好みのものでなくなったというパターンもなくはないだろう

しかし、それ以上に何か、自分「だけ」が''それ''を知っている状態、あるいは、みんなが知らない''それ''を知っている自分が多分好きなのだと思う

そうなってくるとますます自分の「好き」にモヤがかかってきて、判断が難しくなってくる

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セクシャルマイノリティにアセクシャルという性的指向がある
性別に関係なく、他者に対して恋愛感情や性的欲求を抱かないことを指す
(※他の定義もある)

彼ら/彼女らの話を聞いたり読んだりしていると、好きを作ることを強制/矯正するような社会的圧力(?)がそもそも世の中にはあるのではないかと考えたりする

幼い頃から好きな物、好きな人、将来なりたいものを大人から訊ねられて
大人が納得する「好き」に矯正されているのではなかろうか
みんなの「好き」と比較されて、一般的でない「好き」を否定されていないか
そうした疑念がふつふつと湧いてくる

「好き」は誰かに強制されるものではなく、ましてや矯正されるものでもない
別に「好き」が無いなら無いで死ぬわけでもないし、誰かが傷つくわけでもない

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多分きっとおそらく、好きなものがあってもなくても生きてはいける
誰かから影響を受けて好きになったもの
周囲の目を意識して好きと公言し始めたもの
そうしたものも時間を経て、自分が心の底から好きと言えるものになるのかもしれないし、好きなものが無いというのも一つの個性として尊重されるべきである

自分の好きなものに自信が持てない
しかしそれでも良いのかもしれない
いや、もっとしっかり自分自身と向き合って
誰にも譲れない「好き」を探すべきなのかもしれない

20代後半
まだまだ若いが人生は短い
自分の「好き」が目の前に現れた時に見逃してしまわないようにしたい

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