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ネガとポジの往来をしながら

 カメラのフィルムにはネガがある一方でポジもあり。ソールライター然り様々な展示で見てきたポジフィルムの展示の美しさ。そんな憧れのポジ(リバーサルフィルム)というものを初めて試せたので記録へ。

反骨心がありながらも、利他的な人で、相対的な成功をしていなくても、絶対的な挫折を経験している人間こそ愛したい。そう考えた時に、一貫性のある表現者であり続けた山口小夜子さんの展示にポジを使いたく足を運びました。

山口小夜子さんの紡ぐ言葉と姿は一貫している
反射する光を楽しむために黒をつくる


YohjiYamamoto特有の黒の反射がカメラで撮れると嬉しい。

環世界的には見えないが確実にそこに"在る"
電子と銀塩の相性は良い
美しい青は太陽が届く海の限界でしか見れない
これはポジではなくネガだったはず
偏愛に刺さる
ネットの海にない景色をレンズの中でつくる
この展示の楽しみ方は秀逸だった
世の中で見えている見方は、
まだまだ最終的なものでないと思いたい。
これもポジではなくネガ
人を撮りたいと思うことは未だにないけれど、
同じ時代に生きていれば恐らくそう思っただろう。
和とデジタルとの親和性の高さにはいつも舌を巻く
自分が見えている感世界は視覚と脳で違うのでこうして質量化する
当日は美しい雷と全てを洗い流す豪雨が心地良く
こうして記憶を外付けできることに感謝を覚えながら
しばらくはまた山口さんの思想を追うことになるだろう
焦点を探しながら
夢に出てきそうな記憶の断片をイメージへ
この青を肉眼で見れるレンズが羨ましい
そろそろ彫刻も勉強して
自分でつくったものを自分で撮れるのが2024中にやること

 全く関係ないけれど、ここ最近よく考えている事もついでに。利他とは相手を変えようとすることではなく、自分が変わること。証拠はないけれど相手を信じること。フロムの「愛するということ」をケアの倫理に落とし込んで考えている。

道徳と倫理の衝突について、道徳は「してはいけないからしない」ことで、倫理は「したくないからしない」という事だと教わった。ではケアの倫理はケアの道徳にはならないのか。

ケアワーカーやヤングケアラーや心的外傷について考えながら、もっと勉強しなければいけないことは多い。

「私に必要な経験をください。まだあるとするのなら、それを私にください。」と常に祈るのは、そこに相対的な成功を求めているのではなく、唯々自分が納得するまで死ねないのだと思っているこの頃。

写真やアートという複製技術時代での葛藤をしてきた表現と、自然や食という普遍的な存在と、そうしたものの行き来を大切に。

自分の為にご飯をつくることがセルフケアであると、宮沢賢治の菜食思想と、自炊に焦点を当てた本でよくよく納得できた。利他的にしかできなかった行為を、漱石の言う個人主義における自己本位的にできるというのは革命。


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