イメージの消費者、生産者としての責任(MOCA, Alfredo Jaar, 11th Hiroshima Art Prize)
現代アートの極髄といえる鑑賞体験。至高?上質?極致?形容し難いので、初見の感動(絶景を予備知識なしで偶然見た時のあの素晴らしさ)を得たい方は、何も考えず、下調べもせずに、広島市現代美術館へ行ってください。(人生で優に3桁は展覧会を見てきた人の意見として、参考までに…)
ヒロシマ賞を受賞したアーティストは総じて素晴らしく感銘を受けることが多い。第一回の受賞は三宅一生。
「平和のためにアートをつくっているというよりは、アートが本質的に素晴らしく、その結果、平和に貢献した」という文脈から成り立っているからだろう。ヘラルボニーと通ずるところがある。常に本質的なものでないと惹かれることはない。(それを見分けるには不断の努力が必要であることは前提としておく)
今年のヒロシマ賞はアルフレド・ジャー。恥ずかしながら彼をこれまで知らなかったが、今回の鑑賞体験があまりにも上質で、深く突き刺さる作品「しか」なかったので、記録に残しておく。6作品はヒロシマをテーマに新たにつくられたもので、残りの3作品はそれ以前の作品。特にその3作品と本人のキュレーションに圧倒された。(佐々木さんという素敵すぎる学芸員さんからの説明でより感動しました。御礼を。)
「イメージ」に対しての責任を問うてくる「サウンド・オブ・サイレンス(2006)」は「被爆者の写真」に添えられたコメントと重ね合わせざるを得なかった。
「20分シャッターを切れない(切らない)」ということを掛け合わせているかと思ったが、事実がそうではないらしい。バイアスとは怖いものであると思いつつ、問うてくるものの重さは並々ならぬものがあったし、自分の中にキャプションが刻まれていて良かったと心底思う。
生の喜びが、生の苦しみを圧倒できるように、祈る。
この作品も爆心地を見通すMOCAの狭間に位置する。(真意は定かではないらしいが、後から佐々木さんに聞いて腑に落ちた上に鳥肌が立った)
筆舌に尽くし難い体験を共有できないのは嬉しくもあり切なくもあり、ダブルバインドに陥らざるを得ない。忘れることはない作品になるだろう。
アートが好きと言いながら、この作品を約10年も知らなかったことを恥じる。
彼はルワンダ・プロジェクト(1994〜2000)も手掛けていた。心が動かされる作品やアーティストを、鑑賞後に徹底的に調べて、共通項があると、ゾッとする。偏愛と価値観が先鋭化していくのが分かる。
心から逢って心を通わせてみたい存在と久しぶりに出逢えた。彼はまだ66歳。Christian Liberté Boltanskiの時のように後悔はしたくない。人の死は「豊かな後悔」には入らないから。
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