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『メガネ』と同様のダイバーシティへ
眼鏡の普及とは比較にならないスピードで、義足や義手、テクノロジーが普及して欲しい。歳を取る事が怖くない社会をテクノロジーで実現したいです。
最近よくダイバーシティ(多様性)インクルージョン(包括、受容)という言葉が使われていて嬉しいです。
障害者(障がい者)という言葉はずっと苦手で、自分の中では『多様性』という言葉に置き換えてきました。世間の認識とズレがあるとその言葉も伝わらないので、人に対しては障害という言葉を使っています。
ただ、ダイバーシティという言葉が浸透してきたお陰で『障害者というのは個性やその人の中の多様性の一部でしかなくて、背が低い高い程度の個性なんだよ』という事が世間にも認識され始めたかな、と感じています。公共の場にいるとまだまだだなぁと思うことも多いですが。
学生の頃に視覚障害者の方の支援研究をしていました。作ったものは視覚障害者向けのオンラインゲームですが、研究する中で、ハードウェアやソフトウェアの開発が根本の解決にはならないなと思い、卒業と同時に研究を終えています。
極端な言い方をすると、『障害』は社会の側にあると思っています。
もう少し平たくいうと、健常者一人一人の認識、理解の低さが障害の本質です。そんな社会を変えたいと、研究職を離れました。後は大勢の天才に任せた方が、自分よりも余程良いハードやソフトを作ってくれるだろうと思ったところもあります。笑
今回伝えたい事はタイトルのままです。
目が悪い人は時代と共に増える一方ですが、もし眼鏡が無かったら、『障害者』として社会に認識される人がどれ程多くなる事でしょう。車の運転は愚か、仕事も今のように出来なくなりますよね。ただメガネが存在するから、それがファッショナブルな物として扱われる程に社会に馴染んでいる。それが障害者として認識されない側面が本質だと感じています。
視覚、聴覚、手足、どこかしらに問題があってもそれを補うハードやソフトが存在すれば、それはもはや、ファッショナブルな個性にしかなり得ない社会が目の前まで来ています。
人間は生きている限り、誰もが高いダイバーシティを経験していく事になります。目や耳や足も手も、年齢と共に不自由にはなる。ただそれが補完出来る社会になれば、障害という言葉は人に対して使われる事は無くなるでしょう。
障害者を障がい者と表記するような、表面上の無意味な意識の違いは要りません。誰もが多様性と一人一人の個性を尊重する社会、何の意識もせずにそれが出来る社会。この実現が目の前に迫ってきている事は本当に喜ばしい事で、人類の大きな進歩です。
そして、障害に関わらず、すべての人がそれぞれの得意な事、好きな事を分担していく事で成り立つチーム。役割があるだけで、『誰が偉い』とかは関係のないチームがより増えていく事を期待しています。
本当の意味でのダイバーシティとは、全員が均一化した一定以上の能力を得る事ではありません。その時々に応じて、一人一人が自由を選択できる、活躍の場がある、社会である事だと思います。
私も高齢者になる頃には今よりも高いダイバーシティを経験するでしょう。ただその時々、必要なテクノロジーを使い、身体的退化の壁を取り払う事で、生涯に渡って働き続けます。年金問題なんて関係ない。定年退職する気もありませんし、定年は80歳くらいまで(生涯寿命くらいまで)上がるんじゃないかと思っています。
赤ん坊が身体的理由に依らず活躍する時代も来るかもしれません。分野はアーティスティックなものしか想像出来ませんが。笑
テクノロジーへの拒絶が少ない世代がこれから高齢化していく中で、本当の意味でのダイバーシティが実現されていくでしょう。そして、ダイバーシティの高い子供がこの世に生まれ落ちた瞬間から、障害として認識されない時代を早く見たいなと思います。
最近はゲノム編集にも期待しています。
30代のキャリアはまたテクノロジーとゲノム研究に回帰したいなと考えています。
テクノロジーに感謝。
#障害者 #ダイバーシティインクルージョン #多様性 #コラム