フィルム×AI×環世界の偏愛的行為が生む余白とアウラ
フィルム写真撮影→DB作成→AI開発→画像生成 のオリジナルモデル構築のお話。(偏愛性が高いのでご共鳴できる方いればコメントください。)
自分がフィルムカメラで撮影した写真だけをデータベースにして、AIで画像を生成する環境づくりが完了しました!感動できる!!ネットの広大な海に流れていない情報。
自分で撮影したフィルム写真がまだ5,000枚程度しかないことと、AIは一旦DALL-Eベースに構築したためテイストが納得いかない部分もありつつ学習を進めれば自分が撮るテイストになるはずですし、応用も効きそうです。(後半載せた写真は多分他人には判断つかない)
面白さとデジタルの環世界を見たいというのが動機なので、課題ドリブンではありませんが。
ちゃんとバグっている画像が出てくるのも嬉しい。
バグは最高。バグが無い世界にいたら自分でゲームを作る小学生にはならなかったと思います。
エラーほど嬉しい計算機の反応はありません。愛おしいです。
多重露光でフィルム写真を撮り続けた行為が、ようやくデジタルも含めた環世界表現にも繋がりました。
ソローの言葉を常に反芻させつつ。
社会人を機に10年以上デジタルに触れていたバイアスから離れ、本質的な生き方とスティグマの課題ドリブンの解決策を発見するために私も森に入りました。そして今、その本質を心に抱いて、またデジタルの世界に戻ろうとしています。
フィルムカメラを手に、森で過ごした日々を振り返ります。デジタル技術が支配する世界で、私は意図的にアナログの道具を選び、存在の本質により近づこうとしました。
フィルムに捉えられた瞬間は、それぞれが唯一無二で代替不可能です。ベンヤミンの言う「アウラ」があります。
しかし、逆説的に、森での孤独な日々は、デジタルの自然の魅力も教えてくれました。タブレットで描いたような森の中での10年の風景は、現実とデジタルとアナログの境界を曖昧にし、新しい美を創造し、日々更新される価値観に常に気付きを与えてくれました。
機械複製時代の芸術は、オリジナルの価値を減じるのではなく、新たな創造の可能性を開くのです。
AIとの対話は、いつも思いがけない発見をもたらします。AIは私の写真を分析し、気づかなかった構図の特徴を指摘します。時には的外れな解釈をすることもありますが、それさえも新たな創造性の引き金となります。AIは私の創造性を奪うのではなく、刺激するのです。
私はいつも「実存は本質に先立つ」ということを意識してきました。そして今、デジタルであれアナログであれ、技術は結局のところ利他的で親和的な道具であることを実感しています。コンヴィヴィアルな道具を使う豊かさを感じつつ。
それをどう使うかは、私たち一人一人の選択次第です。
カメラを手にした日々は、「存在すること」の意味を教えてくれました。デジタルとアナログ、AIと人間、自然と技術の境界を行き来しながら、あらゆる存在の臨在を感じます。
森を去る理由は、入る理由と同じくらい重要です。なぜなら、それは新しい意味の誕生を示してくれるから。
環世界の為に自分でフィルム写真を撮影しつつ、それをデータベースに生成するAIをつくり、新しい環世界を生成写真で表現する、というのは利他性のない偏愛的行為。
こうした他人には伝わらない偏愛こそ”余白”の中で生まれ、その余白が他者への想像力を培ってくれます。