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本質的な豊かさをつくるブランドとものづくりとは

 幼少期は日本や内戦地域の貧困について考え、新卒から数年はコーヒー生産者3,000万人の生活を豊かにすることを真剣に考えてきた身としては、今ファッションやものづくりに少しばかり関わっている中で、何もできていない虚しさを感じていた。自分の見える範囲以外にも想像力を働かせていれているのだろうか?文化的に豊かなものを本質的に作れているのか?という課題感。それが少しクリアになった体験があったので記録を。

 結論、障害福祉への報酬還元も、生産者への報酬還元も、難しいからこそ取り組みたい課題で、意思のある人間にしかできないことであれば無理は承知で取り組みたいと、改めて思うきっかけがあった。下の記事を書いた時よりは感覚が研ぎ澄まされてきたように感じる。

 先日、服と自然環境、作り手、着る人との関係を見つめる展示「TWO DECADES OF HIDDEN FASHION」を拝見した時の感想の記録。

生産に関わった人が全て記載されたタグ。これは着たい。

<服とコーヒーの背後に広がる世界>

 服とコーヒーは私たちの日常に欠かせない存在だ。だが、その生産過程や裏側にある現実について、我々はどれだけ認識しているだろうか。「Made in ◯◯」のラベルのタグや「フェアトレード」のマークが示す範囲は、多くの場合、その製品の製造・生産の一部分だけだ。衣服の素材調達やコーヒー豆の栽培、加工から流通に至るまでの道のりには、多くの人々と自然環境が絡み合っている。そしてその過程には想像力で補えない壁が多い。トレーサビリティにも限界がある。これだけネットワークが発達した中で、オペレーション意外の限界とは果たして何だろうか?

<ラナ・プラザ崩落事故とコーヒー生産者の現実>

 2013年のラナ・プラザ崩落事故は、大量生産・大量消費の影に隠れた労働環境の問題を突きつけた。一方、コーヒー産業では「フェアトレード」の名の下に、生産者へ適正な対価が支払われる制度が存在する。しかし、それが生産者の生活を大きく改善するまでには至っていない現実がある。正直、「フェアトレード」は全くフェアではない。大量生産・大量消費の背景に隠れた人々の厳しい生活と労働環境は、我々が思っている以上に深刻であることを、こうした機会で考えられることは、自分自身を取り巻く全てのモノとコトとバショに、より意識的な目を向けさせてくれる。

<アール・ブリュットの視点から見た物づくり>

 エシカルファッションやフェアトレードにおける本質的な物づくりを考える時、アール・ブリュットの視点は親和性が高いと感じた。ヘラルボニーのアートや作品もそこに入ると思う。アール・ブリュットは個々の感性から生み出される「いわば純粋な芸術」であり、その精神は一つ一つの製品に対する丁寧な仕事や個性を大切にする物づくりに通じる。売れるか、売れないか、分かりやすいか、分かりにくいか、そうしたものを基準にしない「純粋な表現」が価値として、誰かに届くくらいにはネットワークは広がっている筈だ。分かりやすくて売れやすいものが飽和した中で、純粋なものづくりを楽しむことが生業になるような世界はつくれるのだろうか。

<エシカルファッションとフェアトレードの本質的な問題>

 エシカルファッションとフェアトレードは、生産過程全体で人間や自然への尊重を求める考え方だ。しかし、それが本当に製造過程全体を改善しているか、またその取り組みが生産者の生活に十分な恩恵をもたらしているのか、という問題が浮かび上がってくる。コーヒー生産者がフェアトレード制度の下でもなお貧困を抱えているように、倫理的な製品への支払いが結果的に製品を作る人々の生活を改善するとは限らない。その要因は、価格設定、流通過程、販売量等、様々だ。

ファクトで語れる人が好き

<持続可能な豊かさと新しい文化の実現へ向けて>

 エシカルファッションとフェアトレードの本質的な意味を考える時、ラナ・プラザ崩落事故やコーヒー生産者の現状を見つめ直すことは重要だ。これらは、大量生産・大量消費がもたらす影響の一部であり、それに対する解決策を模索する一方で、我々が商品を消費する行為そのものを見直す必要がある。

 私たちは、自分が身に着ける衣服や飲むコーヒーが、制作・生産する人々や自然を傷つけるものであってはならないと感じている。その思いを実現するためには、消費行動自体を見直すだけでなく、エシカルファッションやフェアトレードについての理解を深め、その背後にある社会や経済のシステムについて考えることが必要だ。

キュレーションが美しすぎた。最後まで見ると感動する。

 そして何よりも、私たち自身が制作・生産の現場に立つ人々を尊重し、その労働が公平に評価され、適切な報酬が支払われる社会を作るためのアクションを起こすことが求められている。それがエシカルファッションとフェアトレードの本質的な目指すべき姿だと私は信じている。

 アール・ブリュットの精神が示すように、ファッションもコーヒーも純粋な表現の場であり、その本質は、個々のアイテムに込められた独特の物語性や個性を大切にすることにある。そして、その物語性や個性は、作り手の人間性やその労働、そして自然との関わりから生まれる。それが意図されるものでなく、純粋な欲求としての表現で生まれてくる世界観を作りたい。

 襤褸(らんる)や襤褸(ぼろ)のような価値観が好きで、ずっとYohji Yamamotoの服が好きだ。新品を買うのではなく、色褪せていく黒、ものへの憧憬、そしてアートとして惚れたものだけを身近に置くこと。

 環境問題に本気で取り組む為に、100種類の草花や虫の名前を覚えたり、環境問題に関与する起業をして当事者意識を作ろうとしていたけれど、そういえば目の前でものづくりをしている組織にいることに気付いた。障害福祉を起点に文化をつくりながらも、本質的な豊かさを追求するものづくりをしたい。


トワル(仏語でキャンバスの意)×アール・ブリュット×エシカルも面白い

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