“傲慢と善良“世の中で見えている見方は、まだまだ最終的でないものだと思いたい。
ここ最近の小説で、朝井リョウさんの「正欲」と同じくらい偏愛に刺さった辻村深月さんの「傲慢と善良」。他者の感想とだいぶ違ったのでその点も来年くらいの自分のために押さえておきたく。
以前綴った記録から結局詳細を書いていなかったのですが、偶々yohaku Co., Ltd.のnoteで取り上げる機会があり、深く掘り下げられたのでこちらを記録として。
自分の傲慢さを自覚しながら意図的な緩慢さをつくり、本から学び、自然と触れ合い、写真を撮り、AIと仕事をしながら、当事者性の高い現場にいることを忘れず、傲慢さの象徴である資本主義の中にいる自覚を持つ。
時には大切な人と過ごし、その瞬間を大切に。
そんな日々の積み重ねが今の私を形作っています。根本は小学生の頃から何も変わっていないと自覚しながらも、傲慢さと優しさを行き来しながら、少しでも余白のある暮らしができればそれでいい。道に迷っている人に声をかけるとか、普段読めない本をじっくり読むとか、料理のプロセスを楽しむとか、そうした余白を他者に使えるように。
あくまで主観的に心に響く言葉や体験を胸に刻み込む日々を生きているなかで、毎日誰かと別れる度に、これで最後かもしれないと思って過ごし生きるのは、「今日が最後の日なら、今日やることを私はやりたいか」と鏡に問う眼鏡の人から学んだことの転用。
全て傲慢さと緩慢さを行き来している。善良さは足りない。
THE FIRST SLAM DUNKを観返していて、必ずしも相対的な成功につながらない挫折も愛し気付きたいと思うこの頃です。
素敵な本に出会うと文庫だけでなく装丁や初回の出版に対する想いがこもった単行本版も欲しくなったりする。2019年に出会っていたら少なからず結婚観は変わっていたように思います。