英語より手話が評価されるコミュニティを探して。
いつもマイノリティデザインと呼ばれるものやダイバーシティインクルージョン絡みのイベントが好きで予定を空けるようにするんだけれど、本日は落合さんの総合ディレクションによる『True Colors Festival 超ダイバーシティ芸術祭 -世界はいろいろだから面白い-』がオンラインで開催されていた。
「デジタルディスプレイを超える」水面と身体との関係性が非常に印象的で、水の反射や粒子の乱反射、そうした直感的に美しいと思えるものを創り出すのは本当に楽しそうだった。
ショーと同等に、モデル達と落合さんの対話の時間が非常に印象的でかつ活力を貰えるものになっていて、楽しい話が沢山聞ける時間。
「(競技用の)義足をつけていると、大体、パラリンピック目指すの?てきかれてしまう」という話には闇の深さを感じつつ、身体が欠損していたとしてもそこに身体性を感じさせるファッション、そもそも欠損とか補完とか拡張とかいう概念自体がそろそろ消えてくれるだろうかなという期待を感じさせてくれる時間を過ごす事ができた。
参加者の皆様、素敵な時間を本当に有難うございます。
それとは全く別の話が表題。日本人はやたらと「英語を話せる人」を重宝して能力を過大に見る傾向があると思っている(英語を使えるのが凄い事を否定する気はない)。唯、英語が話せない人は、話せる人が英語に費やした時間分、何か違うことに時間を費やしているんだからそこに目を向ける習慣があれば良いなと思いつつ、中々そんな事はないと感じている。
そもそも、英語は技術的にはほぼほぼテクノロジーで代替されてきていて、「英語を使えるけど日本語のロジックが下手な人」よりも「英語は使えないけど日本語のロジックが上手な人」の方が本質的な価値を提供できる可能性は高いと思う。
そしてそんな英語とは違って、手話をテクノロジーで代替していくにはまだまだ時間がかかりそうだ。手話を使う人はおよそ8万人程度で、聴覚に障害のある人の数は30万人程とされている。
対して、世界の英語人口は15億人と言われており、国内の外国人労働者は300万人以上いるとされているし、海外に行くことやビジネスを考えれば英語を勉強する方が良いのだと思う。
それでも、手話を勉強する事に目を向けられる人の方に焦点を当てたいと思ってしまうし、ロイヤリティという意味でも高いと思う。利便性という観点や市場という観点から見ると常にマイノリティという側は忘れられてしまうけど、どんな理由であれマイノリティの側に身を置こうと努力する経験が輝いて見えるのは私だけだろうか。
英語が必要な市場はマジョリティで、そのマジョリティに属しながらもマイノリティの事を考えられる人は本当に少ない。マイノリティに属しながらも、マジョリティの事を考えられる人も少ないのかもしれない。
どこのコミュニティに属しているかで必要なものは変わっていくけれど、意図的に英語より手話、マジョリティよりマイノリティに目を向ける習慣がない限り、いざという場面で立ち尽くしてしまう事が出てくるのかなと感じている。
マイノリティもマジョリティも言い方はともあれ、今日のファッションショーで感じられた多様性の輝きは、見た人にきっかけを与えるようなものだったと思う。