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他者性の獲得『呪われたデジカメ』における二つの視点


Cursed Digicam | 呪われたデジカメ

最近リリース頻度が落ち着いてきたショートホラー開発Chilla's Art(以下、チラズ)の最新作。※この文章には作品の構造的なネタバレが含まれます。

まず第一にビジュアルが良い。Unreal Engineを用いて構築したフォトリアルなビジュアルがキマっています。公園というロケーションもゲームで綿密に描かれるシチュエーションが少ないため新鮮でした。

この記事では従来のチラズ作品には無い二つの視点というメカニズムに着目し、ゲームにおける他者性とそれに付きまとう孤独について書いていきます。

二つの視点が意味するもの

私は『夜勤事件』をプレイして満足して以降、実況向けに消費されるようなゲームの作りに辟易してチラズ作品からは離れていました。一見チープなVHSエフェクトの入ったルックも次第にフォトリアルな方向に変遷していき、ますます遠のきました。

しかし、今作『呪われたデジカメ』は一味違いました。下の二つの画像をご覧ください。

主人公の視点
デジカメ越しの視点

今作には二つの視点が用意されています。すなわち「主人公の肉眼」と「デジカメ越し」の視点です。前者は前述した写実的な視点です。一方で「デジカメ越し」の視点には従来のチラズ作品のようにVHS風のエフェクトがかぶさり、細部はつぶれ、色はにじみ、画面のアスペクト比も狭くなっています。

この二つの視点は何を意味し、何を生起させるのでしょうか。ストーリーの種明かしを前提に考えると、これは「プレイヤーの視点」と「主人公の視点」が実はズレていた、という驚きをゲームのメカニズムに仮託して表現していた、という事になります。

具体的には、プレイヤーが「庇護すべき子供」を探しているつもりでも、主人公は「追い詰めるべき獲物」を探していた、というズレです。

二つの視点が生起するもの

一方でこの表現が生起するものとは何でしょう。それは、昨今流行のレトロ風表現に感じるよさとは、肉眼と対象の間に何かしらの媒体(たいていの場合は電子機器)を挟むことによって気づきを得られる他者性、そして孤独にあるのではないか、という仮説です。

肉眼
デジカメ越し

ゲームという媒体、特に一人称の作品は自分ではない何者かの視点を獲得し世界を歩く、という構造から他者の存在を必要とします。しかし、その前提はプレイを継続していく中で薄れ、意識から遠のいていきます。やがてゲーム内の私は「ただの私」と化し、ゲームプレイは日常へと変わります(プレイ時間の長い作品で起こりがちと思います)。

『失踪した友人の部屋に残されていたゲーム』より

しかし、肉眼ではありえないエフェクトやローポリ表現は「私は実は私ではない」という素朴な気付きを表現します。特に『呪われたデジカメ』は肉眼とデジカメという二つの視点を用意するというメカニズム面、主人公とプレイヤーの視点のズレというストーリー面の二つから多角的にプレイヤーの世界に対する他者性を強調します。

今自分が見ている視点には私と世界の間に何かが介入することでしか得られない、自分だけではありえない他者の風景が広がっていることが提示され続けるのです。

そして、この他者の視点にはたいてい「他者の意志」が伴っていないことから、プレイヤーは「他者の視点を借りながらも孤独である」という特異な状況に置かれます。

以上が『呪われたデジカメ』の二つの視点に端を発する、昨今のレトロ風表現がもたらすゲームという媒体に関する気づきでした。件の表現が「ゲーム内の私が実は私ではない」ということをどれだけプレイヤーに提示できているのか?という問題はあると思いますが、私としてはほぼ無意識的に機能し、そこで生まれる特異な「孤独」を好む人がゲーマーには多いのではないかと考えています。

写実とエフェクトが一画面に収まっており、良い

上手く文章にできたとはいいがたいですが、ゲームと孤独というテーマで思考を巡らせる試みとなりました。「他者の視点を借りながらも孤独である」ということの魅力や意味について今後より深く考えていきたいですね。

この文章を構成した一冊 『反哲学入門』

・反哲学入門(著:木田 元)

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