旅人のゲーム/GAME GAME MAGAZINE 02
旅人のゲーム/GAME GAME MAGAZINE 02
text by game game
proofreading and editing by SHINIJ IKEDA
序文
文/ canavis
コロナ禍で、旅ができない世界
ゲームの中で外を歩く世界を観る
――その欲望を満たしていた人も多いのではないか
モニターの中に写る
太陽、空、風、踏みしめる大地は
偽物かもしれない
が、その作られた世界は
現実の世界より人の意思をはらんでいる
偽物の太陽
偽物の空
偽物の風
の中に含まれる人の意思をどう捉えるかを考える
私達がゲームをプレイする大きな理由になっていると思う
一時よりも行動規制緩和が進んだとはいえ
まだまだコロナの時代は続くと思う
私達は旅をつづけよう、本物も偽物も入り混じる世界で
『ゼノブレイド3』から見るゲームの“旅”感の正体とキリスト教由来のモチーフの融合を探る
文/ SIGH
私はフリーゲームライターのSIGHといいます。2022年の7月より活動を始めたまだまだ新人のライターです。このたび幸運にも寄稿する機会をいただけたので、今回のテーマである「旅人のゲーム」について、最近プレイしたゲームの中でも屈指の“旅”という印象が強かった『ゼノブレイド3』について取り上げたいと思います。また終盤のストーリーについては触れませんが、内容上全7話中の6話までの話の展開を取り上げますので、ネタバレを気にする方は注意してください。
プレイヤーはゲームにおいて何をもって“旅”という印象を受けるのでしょうか。キャラクターがある地点からある地点までを歩くだけならそれはただの移動でしょう。私は「多様なロケーションを有する世界観とプレイヤーのシンクロ」だと考えています。例えばゲーム中に色々な場所が出てきたとして、それを写真で見せられるだけだったとしたらプレイヤーの当事者意識は乏しく“旅”感は薄いでしょう。逆にプレイヤーが非常に作品へ没入できたとしても、その物語が1つの場所・1つの街だけで終わったとしても旅という感じはしないでしょう。
そして私個人の感覚を書いていきますが、ゲームでは「行き先」はあっても「計画」がない方が“旅”感があると感じます。計画があって行き先ががあるなら、それは「観光」であり道中は単なる移動という印象が強まります。そして行き先も計画もないなら「迷子・放浪」だと言えます。行き先よりも行き先に辿り着くまでの道中で、何をして何を見て何を感じたかという部分が重要になります。その経験の厚みが単なる移動と旅とを隔てる壁となるでしょう。
さて『ゼノブレイド3』ですが、本作は「アイオニオン」という世界で、高度な機械技術が発達した「ケヴェス」、エーテルと呼ばれる粒子を操るすべに長けた「アグヌス」の2つの国家に分かれ自らが生きるために戦争を繰り返すという舞台です。アイオニオンに暮らす兵士たちは機械で培養されて10歳の身体で産まれ、そこから20歳までの10年というわずかな命をまっとうし「命の火時計」を満たすために敵兵士の命を奪い自らの糧とする過酷な世界設定となっています。「命の火時計」は自分が属するコロニーに設置されている兵士たちの命の源でありメビウスの支配の象徴です。
兵士は戦いの中で死亡するのとは別に「命の火時計」ストックが尽きてしまっても死んでしまいます。20歳となり「成人の儀」を受けることが何よりの栄誉とされていますが、多くの兵士は成人の儀を迎えることなく戦場で命を散らし、それを弔う「おくりびと」の奏でる笛の音色により空へと還っていきます。
ある日謎の高エネルギー反応を追う任務のさなか、ケヴェスのおくりびと「ノア」と仲間の「ランツ」・「ユーニ」、アグヌスのおくりびと「ミオ」とその仲間の「セナ」「タイオン」が出会うところから物語は始まります。2組のおくりびとたちは戦いますが、そこに謎の怪物「メビウス」が乱入し生き残るために協力せざるを得なくなります。メビウスは人間の上位存在であり、アイオニオンを支配しています。力は圧倒的で窮地に陥りますが、謎の高エネルギー体を運んでいた「ゲルニカ」が「ウロボロスストーン」と呼ばれるその物体を解放します。するとノアとミオは合体し「ウロボロス」と呼ばれる巨人になっていました。
ウロボロスの力でメビウスを退けますが、世界の敵となりケヴェスとアグヌス両陣営から狙われる身となった2組は、メビウスの攻撃により瀕死となったゲルニカの「生き延びたいと願うなら大剣の突き立つ地「シティー」を目指せ」という遺言を頼りに協力し、あてのない旅立ちます。
あらすじからも分かるように『ゼノブレイド3』は上記した「行き先」はあっても「計画」がないという区分に当てはまると思います。そしてさらに本作の“旅”感を強調している要因として4つ挙げられます。
①膨大な寄り道要素があること。
「ゼノブレイド」シリーズ恒例といってもよいですが、本作も非常に多くのサブクエストやコロニー解放とコロニーとの交流によるキズナボーナスや、仲間キャラクターであるヒーローの加入といったサブ要素が多く存在します。パーティーメンバーの増加や使用できるジョブが増えるという実利的な側面と、世界観やキャラクター描写を深く掘り下げるという体験的な側面の2軸からこうした寄り道が推奨されます。
旅というのはただ単に目的地に向かうだけではなく、道中おいしそうなお店があったら寄ってみたくなりますし、気になる催し物があったら足を運びたくなりますよね。そういった余白の部分を自分なりのペースでどう埋めていくかという楽しみが旅にはあると思います。また単純接触効果の影響も大いに感じますが、平均プレイ時間が100時間を越える大ボリュームで、寄り道をすればするだけゲームへの理解が深まりました。こまめにフィールドに点在するキャラクターのセリフが更新されるのもキャラクターへの愛着が増す要素になっており、アイオニオンという世界が鮮明に息づくのを肌で感じました。
②休息地が存在すること。
探索をしているといわゆるファストトラベル地点である「休息地」を見つけられます。そこではフィールド上でのランドマークや秘境の発見や、クエストのクリアなどによって得られるボーナス経験値を消費しレベルアップができます。ほかにも装備アイテムであるジェムの作成、パーティーに経験値獲得率アップやアイテムドロップ率アップなどのバフ効果が得られる料理を作れます。街で聞いた噂について、仲間内で相談しクエストとして受注したり、ゲームとしては何の意味もないですが、旅を続ける上で徐々に汚れていく衣服をクリーニングできたりします。
これらはやろうと思えばシステム画面に紐付けるなどの方法で、ボタンを押せばいつでもどこでも行えるようにできたでしょう。ですがわざわざ休息地という形で表現することにより、仲間と語らい笑いながら食卓を囲み、洗濯をするといった生活感を表現することに成功しています。この人間らしい姿を見せることでノアの旅を続ける上での苦労や、ふとした喜びをダイレクトに感じられます。
③陸上の移動手段が徒歩のみを強制されること。
普段車を使って通っている道を気まぐれに徒歩で歩いたら、今までスルーしていた店や場所を発見した経験はないでしょうか。都会住みで車なんてめったに乗らないという人は、いつも降りる駅の1つ前の駅で降りて歩いてみたという体験を想像してください。『ゼノブレイド3』は終盤で海上を進む手段として船を手に入れますが、ゲームプレイのほとんどを占める陸上の探索は徒歩で行います。ですので非常に広大なフィールドの端から端までを自らの足で踏破する必要があります。
奥まったところに隠し通路への入り口があったり、回り道をしたら今まで気づかなかった場所に出られたりといった世界を徐々に切り開いていく探索の喜びは確かに多く感じられます。しかし言うなれば本作のプレイ時間の大半はこのフィールド探索です。何十時間もフィールドを走り回るという動作に費やせば、さすがのファンも疲れてしまう瞬間が訪れます。その疲れこそがゲームプレイヤーと主人公たちをシンクロさせる手段です。旅というのは順調に進むだけではなく思いがけないアクシデントに見舞われることや、見当外れの方向へ行ってしまいそれまでの道程が徒労に終わることも多いでしょう。そのストレスや疲れを実際にプレイヤーに現実時間を大量に消費させるという方法で、良くも悪くもリアルに体験させています。それこそが『ゼノブレイド3』がことさら“旅”感を強調している要素の1つだと考えています
④宗教的モチーフを下敷きにしていること。
ゲームにも限らないですがキャラクターや世界観の設定の下敷きに、現実のモチーフを持ち込むことで描写を厚くするという表現はよく使われています。例えばバトル物の作品で戦略家のキャラクターに「織田信長」の生まれ変わりという設定を付けるとしましょう。そうするとその作品中で描かれるキャラクター描写のほかに、作中で詳しく書かずとも読者は織田信長の逸話を引用してキャラクターの背景を補強してくれます。作中でのキャラクターの行動原理も織田信長ならこうするだろうと把握がしやすく、ほかに生まれ変わりのキャラクターがいれば生前の関係との対比もはかどるでしょう。
『ゼノブレイド3』にはキリスト教由来のモチーフを感じさせる場面が多く登場します。主人公の名前がノアというのも「ノアの方舟」からの引用でしょうし、物語終盤には終末へ向け世界の情報を保存した、「オリジン」というモチーフそのままの建造物の存在も明かされます。本項を説明するにあたりノアたちがウロボロスとなり、旅に出るまでの描写を書き出していきましょう。
ゲームを開始すると戦闘のチュートリアルという形で戦争のシーンが始まります。そしてチュートリアルを終えると、ノアたちは拠点へと戻り任務の疲れを取るために入浴します。このシーンでは男女混浴の場面が描かれ、それぞれが恥ずかしがる様子もありません。機械で培養されて誕生した兵士は、10年の寿命を戦争だけに費やすため生殖という概念はなく、性差をただの個体差だと考えているようです。
舞台であるアイオニオンがどんなに過酷な世界かを示す描写です。そして前述した出来事をきっかけにウロボロスと呼ばれる力を手にした主人公たち6人は、ケヴェス・アグヌスという自らが属していた国家から追われることになります。今まで着ていた軍服を着ることができなくなったため、ゲルニカが輸送していた物資の中にあったありものの服を着ることになりますが、この場面で突然ノア・ランツ・タイオンの男性3人が、女性の前では着替えられないと物陰に隠れてしまいます。この場面は一見ギャグシーンだと流されてしまいそうですが、先ほど描かれた入浴シーンと矛盾しますし、この展開どこかで見覚えがありませんか?
それは旧約聖書の「創世記」の「失楽園」です。「失楽園」は“蛇に唆されたアダムとイヴが、神の禁を破って「知恵の木の実」を食べる。すると善悪の知識を得て裸の姿を恥ずかしいと思うようになり、イチジクの葉で陰部を隠すようになる。それにより神に「知恵の木の実」を食べたことを知られてしまいエデンの園を追放されて人類の始祖になった。これを原罪と呼びその罪ゆえに人間は必ず死ぬようになり、男には労働の苦しみが、女には出産の苦しみがもたらされるようになった"という挿話です。分かりやすく対比させると
「知恵の木の実」を食べて、善悪の知識を得る。
⇒ウロボロスストーンの解放により、ウロボロスの力を手に入れる
裸の姿を恥ずかしいと思い陰部を隠すようになる 。
⇒着替える時に恥ずかしくなり物陰に隠れる。
神に「知恵の木の実」を食べたことを知られてしまいエデンの園を追放される 。
⇒メビウスにウロボロスの力を手に入れたことを知られ、ケヴェス・アグヌスという国家から追放される。
となります。この描写は「イスルギ」というパーティーメンバーのクエストの一環で温泉につかる際に、ノアとユーニが恥ずかしがるというシーンからも、性差を意識し恥ずかしがるようになったのはウロボロスになってからという描写が補強されると考えます。またウロボロスというのは自らの尾を噛んで飲み込み円を形づくる蛇であり、ウロボロスストーンを解放しノアたちをウロボロスへと変貌させたゲルニカは蛇にあたります。
ゲルニカはケヴェス・アグヌスに属さない、かつてのウロボロスの末裔が暮らす「シティー」の生まれです。シティーの人間は「兵士たちの機械で培養され死んでも何度も生まれ変わるが、その代わり10年しか生きられない」という縛りから解放され、生きるために戦い続ける兵士としての宿命から逃れ、子供を作り暮らしやがては老いて、生まれ変わることなく死んでいきます。この部分は人間へと堕落したアダムとイブの原罪と対応しています。
このように失楽園になぞらえて追放された主人公たちは旅へと出ますが、これは苦難の道でした。主人公たちを待ち受けるのは仲間のミオの寿命があと3か月で尽きてしまうという現実です。縋るようにシティーを目指して旅をして、あと1ヶ月というところでシティーに辿り着き世界の真実を知ったのも束の間、シティーで請け負った任務の途中で強大なメビウスエヌとエムが現れ捕まってしまいます。
エヌがミオの寿命が残り僅かだと気付くと成人の儀を行い盛大に祝ってやるといい、ノアたちを牢屋に閉じ込めて残り時間を浪費させます。そして最期の日、大勢の人の前でまるで処刑かのようにおくりびとたちが笛を奏で、ミオは消えて空へと還っていきました。詳しく描写すると根本的なネタバレになるので控えますが、実はミオは死んでおらず復活するという展開になります。
私は原罪を背負ったミオが旅をして処刑され復活するというこの部分は、キリストの「ヴィア・ドロローサ」になぞらえているのではないかと考えています。「ヴィア・ドロローサ」とは救世主であるキリストが磔刑を受け、人類を原罪から救うためゴルゴタの丘まで十字架を背負って歩いた道のりのことです。そしてキリストは刑死した3日後に復活し弟子の前に姿を現したといいます。
ミオが命が尽きることを覚悟して旅をして、その結果復活するという流れはノアたちの旅それ自体が、「ヴィア・ドロローサ」をモチーフとしていたと言えるのではないでしょうか? このように旅立つ理由と旅そのものの下敷きにキリスト教のモチーフを使用することで、作品に根底に使命感や神聖さを与え、シナリオの描写に厚みが増していると考えます。
そして前述したように、アダムとイブが原罪を背負って人間になるという失楽園を下敷きにしています。そのため『ゼノブレイド3』でも原罪を背負うことで、アイオニオンの神であるメビウスの駒という兵士としての運命から脱却するという構造になっています。それは遙か昔に支配から抜け出したシティーの住人はもちろん、ノアが「命の火時計」を破壊し解放したコロニーの住人もそうです。人間は神から自立して生きていかなくてはならないのです。
そして物語はノアたちが世界を支配するメビウスを打倒していくという流れに移っていきます。これはニーチェが「神は死んだ」といったように近代化・産業化・科学化の中で「世俗化」を果たしてきた近代西洋の流れを表していると考えています。つまり『ゼノブレイド3』は単に物語にキリスト教のモチーフをフレーバーとして使用しているだけだけではなく、物語全体のメタ的側面でキリスト教が生まれ、近代になるにつれ「世俗化」していったというこれまで人間が歩んできた歴史の旅をも表現しているといえるでしょう。
最後に
『ゼノブレイド3』というゲームは多くの不満点を孕んでいるのも確かです。ミオの寿命が3ヶ月で尽きるという設定であるにも関わらず、前述した膨大な寄り道要素が存在することにより、そんな事している暇はないとプレイヤーは感じてしまいます。ファストトラベル地点同士をワープで移動できるなどの設定がないにも関わらず、1月かけて歩いてきた道のりを何度も往復することになるので、ゲーム内システムにツッコミを入れるのは野暮ですが矛盾が生じています。ミオが自分の命の残り時間を実感し焦っているというカットシーンが挿入された直後に、一番最初の地域でクエストが発生したから逆戻りし、ノンキに畑作りに何日も費やすという展開もあります。そのためシナリオとシステムがチグハグで全く噛み合っていません。
そして寄り道が多いというのは戦闘システムとも食い合わせが悪いです。私は「ゼノブレイド」シリーズのようなサブクエストが大量に存在するオープンワールドライクな箱庭マップと、RPG的な「レベル」という概念は相性が悪いと考えています。
『ゼノブレイド3』は位置取りやアーツ回しのタイミングが重要となる戦略的なバトルがウリの作品ですが、サブクエストを繰り返していると必然的に主人公達のレベルが上がりすぎてしまいます。そうなると本編ストーリー上でのバトルに戦略という概念がなくなり、極端なことをいえばボス戦をオートアタック任せにして、プレイヤーはコントローラーに触らずとも勝てる消化試合になってしまいます。にもかかわらずカットシーンでは主人公たちは大苦戦しておりプレイヤーの心情との乖離がありました。例えば本編のストーリーやイベントは、FF14のように適宜適正レベルに調整されるレベルシンク制を導入すれば、主人公たちが苦戦しているという状況とのシンクロをより味わえたと思います。
シナリオも抽象的な表現が非常に多く、特に敵との問答では具体的な方策や状況が明かされないまま「絆」「希望」「夢」「現実」「願い」などのぼんやりフワフワしたワードの応酬が繰り返され、ゲームを通してよく分からない道徳の授業を受けさせられていた気分になります。私自身『ゼノブレイド3』はどちらかといえばnot for meなのですが、今回のテーマである“旅”感の演出という点においては優れていたと思いますので今回取り上げさせていただきました。
今回の執筆のなかでミオの復活というゲームの山場の1つまで触れましたが、キリストも復活したあと40日後に昇天するまで弟子たちと過ごし教えを広めたように、ノアたちの旅はまだまだ終わりません。アイオニオンという世界に対してどのような決断を下すのか読者の目で実際に確かめてほしいと思います。
メタな視点で考えたい『ANONYMOUS;CODE』感想 素材を調理しきれなかった作品
文/ hahaha
2015年に発表され、開発が長期化していた科学ADVシリーズ最新作『ANONYMOUS;CODE』。本作は2022年7月についにリリースされました。しかしながら、本作のAmazonでの評価は星3.5などと、ユーザーからの評判はあまりよろしくありません。本作のゲーム内容について語られる機会は残念ながらすくなくなってきた印象があります。
僕はゲーム中、そしてクリア後、どうしても本作をメタ的な視点で考えてしまっていました。科学ADVシリーズは原作者の志倉千代丸さんの「脳内妄想」が原作になっていると僕は考えています(「妄想」は科学ADVで重要なワード)。ですが、本作はどうしてもこの脳内妄想の設定ばかりが先行してしまい、素材をシナリオライター陣が上手く調理しきれなかった印象があるのです。
この文章では、そもそも科学ADVの魅力とはなんだったのかを振り返ってみて、メタな視点で『ANONYMOUS;CODE』について僕なりに考えていきます。初めに言っておくと、ネガティブな感想になります。『ANONYMOUS;CODE』のストーリー展開の仕方など、一部ネタバレが含まれている記事になるのでご注意ください。
そもそも科学ADVの魅力は緻密なキャラ描写ではないか
科学ADVは2008年の『CHAOS;HEAD』から始まりました。この作品の当初のジャンルは妄想科学NVL(ノベル)。妄想をテーマにし、設定としては妄想が現実になる行為「リアルブート」、妄想を現実にできる能力者「ギガロマニアックス」が軸になっていました。続く第2弾はヒット作の『STEINS;GATE』。こちらではタイムリープやタイムマシンが設定上の軸になっています。
はたして、この設定だけ聞いておもしろそうに感じられるでしょうか。これはわざとつまらなそうに書いていますが、僕が科学ADVでいつも印象に残ってきたのは、緻密な積み重ねのキャラクター描写です。『STEINS;GATE』では厨二病の少年・岡部が、ヒロインたちを救うために奮闘します。当初、アニメを含めて展開が遅いと言われてきた作品ですが、そのヒロインたちを救う過程にヒロインたちとの交流があったわけです。
そこにプラスして、長々とタイムマシンなど設定について語る場面がありました。これらの設定はあくまでもストーリーを語るための道具であったと、もしかしたらこういうことができればヒロインや世界を救えるのではないかと。そういった道具として、設定がストーリー上で機能していたと僕は考えています。『STEINS;GATE』の魅力は超王道のラブロマンスや人間ドラマを描ききったことであると、僕は『STEINS;GATE ELITE』のレビューのときにも書いています。
一方の最新作『ANONYMOUS;CODE』は設定ばかりが先行してしまった印象があります。僕はゲーム中、メタな視点でしか作品を見られなくなってしまっていました。
メタな視点でしか見られなくなった『ANONYMOUS;CODE』
『ANONYMOUS;CODE』の舞台となるのは2037年の中野です。本作はセーブ&ロード機能を、主人公の高岡歩論(ポロン)が使えるようになったという設定が軸になっています。ゲーム的なセーブもありますが、ストーリー上のセーブ&ロードはポロンがプレイヤーからの呼びかけに同意したときのみ可能となっている設定です。本作ではプレイヤーとポロンがタッグとなって、困難を解決していくことになります。
本作の公式ジャンル名は「メタ科学アドベンチャー」となっています。ほかにも地球シミュレータの設定が軸となり、「セーブ&ロード」 vs 「未来を予測できる地球シミュレータ」の対比のようなストーリーが展開されます。このゲームに登場する地球シミュレータは、現在存在する地球の人々までシミュレートする設定です(隠し事や個人の秘密などさまざまなことを暴き出します)。その力はもはや神の領域。作中の地球シミュレータは、核兵器以上の政治的道具のような扱いで描かれます。
本作では、プレイヤーが謎のセーブファイルをロードするところから物語が始まります。そこではポロンとヒロインのモモが、未来のバイクであるグレイパーに乗って軍から追われる場面から始まります。まるで最初からクライマックスのようです。そのクライマックスな描写が終わると、オープニングよりちょっと前の出来事として日常描写に入っていきます。
ファミ通のインタビューを参考にすると、どうやら本作はなるべくわかりやすく作ろうとしたようです。すこしストーリーを読み進めていくだけで、日常描写からすぐにこの軍に追われるシーンと同じ場面に到達します。科学ADVは最初にエンディングを最後に持ってくるような形が多いですが、この最初からクライマックスなこと自体はわかりやすさとして機能しています。
ここまでは物語に熱中していました。問題なのはオープニング後の日常描写です。ここでは「バ美肉」を題材にしたAR喫茶が登場します。本作は2015年に発表されたゲームです。バ美肉は2015年には存在せず、2017年あたりから誕生した概念です。これは本作の開発期間を考えると、現代っぽく見せるために取って付けたような描写に感じられてしまいました。解説役として機能する友人のウインドくんというキャラもAIと恋をしているのですが、最終的にバ美肉やAIキャラがストーリーにいる意味はなかったと感じてしまいました。
本作は「メタ科学ADV」ですが、さらに上位の視点、僕はこのゲームがどのように開発されてきたのかというメタな視点でしか見られなくなってしまっていました。これは開発期間の長期化を知っているから、開発者のインタビューなどを読んできたからではあります。どうしても、僕は本作のことを素材を上手く調理しきれなかったゲームだったという印象しか残らなかったです。
ストーリーの話に戻りますと、やがて物語は解決不能事件「クエスト」を仕掛けてくる謎の天才ハッカー「Cicada3301」との対決が軸になります。このクエスト自体は1回目のものは科学ADVらしい、世界的な事件に発展して燃えるものでした。ですが、2回目以降は繰り返しに見えてしまい、ストーリー量を水増しするものに見えてしまった部分があります。このような部分でも僕はメタな視点になってしまいました。
残念な作品だったが、志倉さんにはまた伝説を見せてほしい
そして、ストーリー上ではクエストをやりながらバチカン市国の機関「513聖務室」が黒幕として出てきます(公式サイトでも書いてある範囲です)。このあたりから全体的に描写不足が目立つようになってしまいました。ローニン、フェリーノといった513聖務室のメンバーを中心に、立ち絵がある敵キャラの過去などはほとんど語られることはありませんでした。
主人公キャラであっても、伏線を積み重ねて解消するのではなく、その場で主人公が突然思い出して解決するといったケースがありました。積み重ねの要素が、明らかに旧シリーズから足りていないと感じてしまいました。全体的な描写不足。これはもはやわかりやすさとは言えず、開発が上手くいっていないと感じてしまいました。
先述したとおり、科学ADVは志倉千代丸さんの脳内妄想をシナリオライター陣が調理してできるものです。メタな視点で考えると『ANONYMOUS;CODE』は明らかに素材を、いや、妄想を調理しきれなかったのだと僕は思います。ファミ通のインタビューを見ると、バチカンなどの都市伝説系のネタはPVで先に用語を並べることによってネタを「予約」していたようです。実際、ゲーム内でPVで予約したネタは出てくるのですが、伏線はなく突然出てくるネタもありました。予約自体はいいのですが、このネタを使うことにライター陣が固執した結果、ネタを上手く調理できなかったのではないでしょうか。
どうしてもメタな視点でしか考えられなかった『ANONYMOUS;CODE』。結果的に僕はその出来に満足できなかったのですが、今後は開発体制の見直しをして開発が長期化しないように、クリエイター陣には上手く要素を調理していってほしいと思います。ネガティブな感想になりましたが、僕のなかで科学ADVはもはや伝説。志倉千代丸さんには、また伝説を見せてほしい。僕はそう願っています。
唐突ですがゲームTシャツで沼ってみませんか
イラスト/ AKABE
『ソウルエッジ』にみる旅情―格闘ゲームの戦わない側面―
文/ よごえむ(林與五右衛門)
格闘ゲームは、概して国際色豊かなものになることが多いゲームジャンルだ。多様な国々の格闘家が登場し、各地域の街や風景を戦いの舞台とする。「選択したキャラクターが各地を巡り他のキャラクターを倒していく」というフォーマットは、このジャンルの草分けたる『ストリートファイターⅡ』が採用していたこともあり、その後多くの格闘ゲームにも引き継がれた。たとえば後発の『THE KING OF FIGHTERS』や『バーチャファイター』は「格闘家が大会に集う」といった設定を持つが、会場はひとつに限定されず、多彩なロケーションが用意されている。
「戦い」は格闘ゲームの本分だが、それが全てではない。舞台となるステージからプレイヤーがその土地の風俗を垣間見たり、出自の異なる登場人物が目的の途上で交叉するといった点から、このジャンルには「旅」という要素を多分に見出すことができる。
今回はそのうちのひとつとしてプレイステーション版『ソウルエッジ』を取り上げる。
本作は1996年12月20日にナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)から発売されたPS用の3D武器格闘アクションで、同年に稼働したアーケード版に追加要素を施して移植したものである。
西洋を中心に人間の移動が活発になり、各地にその波が押し寄せる16世紀の大航海時代。異文化が接触し激動の中にある世界を舞台に、最強の剣「ソウルエッジ」を求める10人の剣士たちが世界を旅し、刃を交える、というのが本作の大まかな設定だ。PSへの移植にあたってアーケードモードのエンディングにリアルタイムポリゴンによるシーンが新たに加わるなど物語演出が補強されている。
さて、本作で「旅」を感じさせてくれるのがコンシューマー用オリジナル要素の「エッジマスターモード」だ。これはごく簡素なRPGのような1人プレイ用のモードで、設定された課題のなかで敵と戦い、武器を集めながら世界各地を巡るというものである。
各キャラクターには個別のルートが用意されており、戦いの前後の動向が一冊の本に記述されていくことで、徐々に物語の体を成していく。ワールドマップ上に表示されたキャラクターが次の目的地に向かう際「○○は、太平洋を渡りアジアへ向かった。」といったメッセージが現れる。些細なひと言だが、このメッセージがあるだけでもキャラクターが旅をしている感覚が間接的にプレイヤーに伝わってくる。本作に限らず格闘ゲームのステージは概して地域性を誇張した見た目のものが多く、細かく作り込まれた背景と、各ステージ固有の音楽が組み合わさることでその風土らしさをプレイヤーに印象づける。『ソウルエッジ』の登場ステージは名勝となる建築物や自然の景色など大きなものを用いて地域性を持たせるデザインとなっており、人や風俗といったミクロな視点からは描かれていない。そこで取りこぼされる細かなニュアンスが『エッジマスターモード』の文章によって補われるのだ。
「エッジマスターモード」は課題が設定されていることや、集めた武器を装備してステータス変化を図れるという点を除けば、通常のアーケードモードの進行にマップ移動と文章を加えただけともいえる。だが、それぞれのキャラクターが旅立つ動機がゲーム内で明示され、なぜその場所に辿り着いたのか、どうして他のキャラクターと戦うことになったのか、そうした理由が叙述されることは他の格闘ゲームにはあまり例が無い。このような描写が差し挟まれることにより、格闘ゲームでありながらまるで紀行文を読んでいるようなプレイ感覚を生じさせている。なお、「エッジマスターモード」のエンディングはもともと存在したアーケード版と同様の物で、一冊の本の結末として物語を三人称視点で語っている。対して新規に製作されたPS版アーケードモードのエンディングはキャラクターに近い視点から物語を詳細に語っており、その道中を描く「エッジマスターモード」とはお互いを補完しあう関係になっている。
『ソウルエッジ』は後継作以降も「エッジマスターモード」のようなコンシューマー用追加要素が注目を受けるシリーズとなった。『ソウルキャリバーⅢ』からはアーケード版に先んじてPS2版がリリースされるなど、シリーズを通してコンシューマー版をメインにシフトし、キャラクタークリエイションなどの豊富なコンテンツが話題を呼んだ。2022年現在の最新作『ソウルキャリバーVI』では、クリエイションキャラクターを作成して世界を旅する「Libra of Souls」という「エッジマスターモード」の後継ともいえる要素が収録されており、より広く自由にマップを巡ることができるようになっている。一方で「Libra of Souls」は、各キャラクターごとのオムニバス形式ではなくなったこともあり、物語を語る視点がクリエイションキャラクターのみに絞られ、1プレイに掛かる時間が長大なものになっている。アーケードモードに近い感覚で登場キャラクターそれぞれの旅を感覚で見届ける「エッジマスターモード」とは見た目以上に方向性の違いがあり、私個人が期待していたものとは異なるものだった。
格闘ゲームは競技性が特に強いジャンルで、その花形である対人戦を主軸に考えると、コンピュータ相手の一人プレイ用モードはさほど重要視されないことがある。しかしそれは承知の上で格闘ゲームに一人プレイ用モードは必要であり、物語や設定も描くべきだと私は主張したい。
幸いにして2022年現在は『GUILTY GEAR』シリーズや『Mortal Kombat』シリーズなどバトル外でのシーン演出に力を入れて作られたゲームが好評を博し、今後リリースされる『ストリートファイターVI』でも「WORLD TOUR」という一人プレイ用モードが話題となっている。こういった傾向のゲームが好ましく迎えられているのは、格闘ゲームが持つ戦い以外の側面に期待するプレイヤーが潜在的に一定数いるからではないか。
『ソウル』シリーズは「キャラクターが旅をする様」を描いてきたことが特徴のシリーズだ。上述したような他の格闘ゲームの存在は、その特徴に影響を与え、少なからず変化を及ぼすことになるだろう。『ソウルキャリバーVI』のリリースから4年が経ち、新作ではどのような表現でキャラクターの旅路が描かれるのか、期待を掛けて今後の動向を見ていきたい。
『ソウルエッジ』 公式サイト:https://www.bandainamcoent.co.jp/cs/list/souledge/
『ソウルキャリバーⅥ』公式サイト:https://sc6.soularchive.jp/
ゲームでも旅に出れなかった僕たち。しかし、かけがえのない友人や仲間は笑顔をくれた。『ユージェネ』サービス終了に寄せて。
文/ カワチ
せめてゲームのなかだけでも旅に出たい。その願いすら叶わなかった。
2021年4月21日にサービス開始され、2022年6月1日にリニューアルするものの、同年12月1日をもってサービスを終了することになった『ユージェネ』。
本作にはアスタリスタと呼ばれる存在がいて、彼女たちは崩壊が迫る自分の世界を復興するための“エール”を集めている。そのエールを集める方法というのが、毎日決まった時間に行われるライブ配信でのユーザーとの交流であった。
ゲームは、現実世界をもとに作られたフィールドを舞台にプレイヤーの分身であるロボットのロイドを動かし、随所で遭遇するアイズを倒していく#ワールドと、アスタリスタたちと交流する#ライブが存在。#ワールドで手に入れたアイテムを#ライブで送ったりでき、アスタリスタが自分のエールに反応してくれることも。
アスタリスタはVTuberではなく、あくまでゲーム内に登場するキャラクター。今まで画面のなかにいたゲームのキャラクターと、ついに送受のコミュニケーションができるという点が新しく、筆者がハマったポイントでもあった。
ただ、残念だったのはコロナ禍だったことだ。#ワールドは現実を舞台にした“Google Maps Platform Gaming Services”を使ったもので、プレイヤーが北海道から沖縄まで広い世界を自由に冒険できたが、コロナ禍によってプレイヤー自身の行動がかなり制限されてしまったのだ。
実装されたゲームデザイン的には、ゲームのキャラクターを動かすことで家から一歩も出ずに日本を踏破することも可能だったが、もともとはプレイヤーが実際に旅をすることを想定して作られていたのだと思われる。
本作には、その土地でしか手に入らない“ご当地エール”が存在するが、ゲーム内のキャラクターを動かしてご当地アイテムを手に入れただけでは味気ない。実際にその地に赴き、その“ご当地エール”をアスタリスタたちに送り、その感想をもらったほうが思い出も重なり、何倍も楽しかっただろう。
現実のなかで旅に出れないのであれば、ゲームの中で旅に出ればいい……。それすらも、現実とリンクしたゲームであれば難しいことを思い知らされた。
コロナ禍でなければ、もっといろいろな可能性があったのだろうな……と思わされる作品だった。
ただ、逆にコロナ禍での希望となってくれたのが『ユージェネ』だった。この窮屈な時代に心が沈みそうになるなか、精一杯のパフォーマンスでアスタリスタたちはユーザーを笑顔にしてくれた。この空間に打算や嫉妬といった感情はなく、ただただ“楽しい”というポジティブな空気で包まれていた。
自分自身、何度も彼女たちに救われたし、同じ気持ちのユーザーも多いはずだ。『ユージェネ』で大切な友人と仲間に会えたことは感謝しかない。
いまだコロナ禍は明けず、彼女たちもどこかへと去っていってしまった。もう会うことはないかもしれない。ただ、寂しくはない。僕たちは同じ青い空で繋がっているんだから。
さぁ、最初の一歩を踏み出そう。本当の旅立ちが、今、始まろうとしている。
命短し旅せよ乙女『サクラ革命~華咲く乙女たち~』
文/ 庵野ハルカ
旅に関するゲームを紹介しよう。魅力的なキャラクターと熱い物語が楽しめるゲームだ。ただし、今から触れることは困難なゲームでもある。
物理メディアでのリリースはされていないため中古でソフトを購入することは出来ないし、ダウンロードしようにもストアからは削除されている。タイトルは『サクラ革命~華咲く乙女たち~』と言う。SEGAとディライトワークスがタッグを組んで2020年12月15日にサービス開始、2021年7月20日にサービス終了となったスマートフォン向けの運営型RPGだ。
タイトルで予想がつくと思うが、本作は「サクラ大戦」シリーズの系譜にある作品である。サクラ大戦シリーズ初の運営型タイトルということで期待されていたが、売上面での低迷からわずか半年程度でのサービス終了となった。確かにシステム面で致命的な問題を抱えた作品である。
キャラクターの強化に使うアイテムの獲得には指定のミッションを何度も挑戦する「周回」が必要になるが、レアアイテムの獲得率はかなり低く、周回作業は全て手動で実行する必要があった。近年の運営型タイトルはプレイヤーに可処分時間を奪う要素を減らす傾向が見られるが、短時間で効率よくゲームを進行することが困難な本作のシステムは多くのプレイヤーにとって苦痛になったと考えられる。
加えてサービス開始当初は他プレイヤーから助力を得るソーシャル要素も希薄だったこともプレイのハードルを高くしていた。戦闘要素はターンベースのコマンド入力型バトルを採用したものだが、同様の戦闘システムを採用した運営型タイトルでは一般的な他プレイヤーのキャラクターを戦闘メンバーにゲスト参加させる機能が存在しなかったのだ。このゲストキャラ参戦機能は強力な助っ人の存在で攻略難度を下げると同時に、プレイヤー間の結びつきを強めるソーシャル要素である。サービス開始からしばらくして本作にも同機能が追加実装されたものの、それまでは独力でクリアが必要な孤独なプレイを強いられていた。
こういったゲームとしての遊びにくさ、プレイヤーへの負担が大きいシステムは日進月歩のスマートフォン向けアプリ市場では古臭く見えてしまったことは否めない。短命に終わったのも仕方がないかもしれない。
システム面に大きな問題を抱えていたものの、世相や地域性を取り入れた物語は挑戦的であり、旅の感覚を多分に持った面白い作品だったことは主張しておきたい。
物語の舞台は新エネルギー「ミライ」によってエネルギー問題が解決され、政府直属の歌劇団「B.L.A.C.K.」が治安維持と国民への娯楽を供給する架空の時代の日本だ。B.L.A.C.K.以外の歌劇団の活動が禁止されたことで閉塞感が漂いつつも、政府から提供される安全を受け入れる国民という構造はかなり風刺的だ。
実は「ミライ」が人々の霊力を強制的に収集することで生成されているものであり、劇中の敵が霊力を吸い付くされた人間の成れの果てである。つまり、政府こそが諸悪の根源であり、悪に立ち向かう主人公一行は政府への反逆者となる。これまで体制側の正義の組織を描いてきたサクラ大戦シリーズにとっては革命的な題材だったのだ。
時代設定が太正100年(2011年)の東日本大震災と同じ年に設定されたことで、全国の「ミライ」製造拠点を破壊していく主人公たちの活躍を反原発運動と解釈する言説も見られた。こうした設定については制作側も無意識に制作したものではなく、社会問題を反映させる意図はある程度あったと思われる。
各地で悪の拠点を破壊していく車旅という点で、2020年にリリースされた『ペルソナ5 スクランブル ザ ファントム ストライカーズ』と近い構造を持っていることも興味深い。同作がその土地ならではの問題に向き合うような物語となっておらず、各地への移動が観光旅行的なニュアンスが強かったことに較べて、現地で新たな仲間と出会い、土地の魅力を見つけていく『サクラ革命』はより濃密な旅を描いていたように思う。
例えば、2章の中国地方編では吉田松陰が主宰した私塾「松下村塾」を彷彿させる「松林館」の出身者である少女たちとの共闘が描かれる。高杉晋作、伊藤博文といった文明開化を成し遂げた維新志士たちを輩出した松下村塾を背景に据えることで、単に観光地を巡るだけでは得られない歴史観をプレイヤーにもたらした。その他にも4章の近畿編では新選組ならぬ撰進組の登場、大阪での万博開催などその土地ごとの題材を物語に取り込むことに成功している。
旅先で出会うキャラクター達も土地ごとの題材を取り入れている。長崎出身でイギリスと日本にルーツを持つ乙女、愛媛県今治市出身で村上海賊風な人物もいれば、宇宙事業で有名な種子島出身で宇宙へ行くことを夢見る少女など様々だ。彼女たちの背景となっている土地の歴史を知るだけでも学びは多い。
各章のエンディングが、現地の市民に向けた一回きりの演劇の公演活動なのも旅らしさを高めている。旅人はあくまで一時的な滞在者にすぎず、現地で知り合った人々とはその土地を離れる際に別れてしまうものだ。劇中でも出会った人々とはその場で分かれて、一行は次の土地へと向かう。今生の別れではないが、寂しい瞬間ではある。そうした寂しさを、出会った人々と土地への感謝を込めた歌と踊りによってよりポジティブな旅立ちへと変換していく。ありがとう、また逢う日まで。出会いと別れ、『サクラ革命』は旅につきものの寂しさと楽しさを両方味あわせてくれる意味で正しく「旅」のゲームだ。
魅力的な物語を持ったサクラの旅はサービス終了とともに終わりを迎えた。九州から始まった旅が北陸や東北にたどり着けずに終わってしまったことは残念でならない。用意されていたイベントシナリオや追加キャラクターは全てお蔵入りとなった。予定されていたVTuberの宝鐘マリン、白上フブキの声優としての参加も実現せず、2022年11月時点で設定資料集やサウンドトラックの発売なども一切されていない状況だ。
とはいえ、東京での最終決戦やメインヒロインの成長を描いた旅の終着点は美しいものだったし、省略してしまったとはいえ旅の最初から最後までを描き切ることが出来たことは運営型のタイトルとしては貴重な例だと思う。機能は制限された形だが、ローカルで動作するバージョンをリリースする対応にも制作側の誠意が感じられた(サービス終了後にこちらも配信終了)。
「日本、奪還。」のキャッチコピーで立ち上げた企画が無念な形で終わってしまったことは現実の革命の難しさを証明しているようでもあったが、旅には終わりがあれば始まりもあるものだ。儚く散った桜の花だが、また芽吹くこともあるだろう。その時が来るまで私はこの旅の思い出を忘れない。
コントローラーコレクターという旅 〜ファミ通限定初代beatmania専用コントローラー編〜
文/ ぼぶそん
コレクターってのは自由で楽しいもんです。
目的を持って集めていたはずが、集めるうちにバージョン違いや歴史などが気になりはじめ、あちらこちらとフラフラ寄り道する内にとんでもないものに出くわしたりと、まるで旅の様な楽しさがあります。
自分もそんな楽しさに魅了されてゲームのコレクターをやっており、ここ数年は特にコントローラーに注力して活動しています。今回はその中でも初代beatmania専用コントローラーのお話をしてみようかと思います。
私が引っ越しして間もないころ、退屈な開梱作業のお供によくTwitterのスペースを使っていました。
知り合いだったりそうでも無かったり、いろいろなところにお邪魔した中の一つが本誌のサークルであるgame gameでした。
入ってみると流石にゲームに詳しい方が多い。面白い話が聞けたり、私も開梱したてのコレクションを見せたりしてなかなかに盛り上がりました。と、そんな会話の最中、気になる言葉が出てきました。
「初代beatmaniaコントローラーにはファミ通限定版があるんですよね」
調べてみると確かにあった。
デザインもオシャレで所有欲をそそる。何よりbeatmaniaのコントローラーってところが良い。
私が考えるコントローラーの魅力の一つに、対応ソフトへの評価が反映される、というのがあります。
コントローラーの大半はゲームソフトの発売後に出回るものです。ソフトとコントローラーが同時に発売したとしても、追加生産や新版、はたまた別会社から似た商品が出るなんて事もあります。
追加生産されるという事は、コントローラーそのものかソフトに人気があるという事。人気があるという事は、より市場競争力を高めた面白いコントローラーが開発がされる事に繋がります。
ここら辺を想像しながら、製品仕様・市場出回り数・バリエーションを見るのがコントローラーコレクションの面白いところです。
さて、ここでbeatmaniaというソフトの評価を振り返ってみると、ゲームセンターでのブームを筆頭にして大変な人気がありました。ダークなクラブの雰囲気を軸にしたカッコよくオシャレな音と映像は、プレーする人にステータスを与えるほどでした。
コントローラーの視点で見ると、鍵盤を模した特殊なボタン配置と思わず触りたくなるスクラッチを操作することに価値があるため、家庭用で遊ぶにも専用コントローラーの有無は非常に重要です。
beatmaniaの制作元であるコナミが許諾をしていた専用コントローラーは2種類。1つは『beatmania CONTROLLER』。発売日は1998年10月1日、販売元はASCII。シンプルだがチープさを感じさせない黒いボディに、鍵盤5つとスクラッチを備えた標準モデルといった仕様です。
もう一方は『beatmania DJ Station PRO』。発売日は1999年1月31日、販売元はコナミ。造形にDJ機材感が増したシルバーのボディには、標準モデルの機能に加えてヘッドホン端子と左右の音量調整ノブ、さらに鍵盤ボタンには発光LEDが搭載されたハイエンドな仕様です。
この製品の並びからは、プレーの快適さよりプレー体験や所有に価値を出す方向性が感じられます。邪推をすれば、ASCIIが販売した『beatmania CONTROLLER』の売り上げをコナミ側が許せず、よりユーザーが求めているハイエンドなコントローラーを自社から出して直接売り上げを増やそうとしたのでは、なんて机上の空論もできそうです。
その上で改めてファミ通限定モデルを見ると、オシャレな限定版という所有価値の更なる向上がされており、また、ファミ通は2000年までASCIIから発行されていた事の証左も感じさせます。邪推方面だと、コナミの『beatmania DJ Station PRO』とは別方向のハイエンド製品をASCIIが出す事で、自社の売り上げアップを計ったのではなんて事も考えてしまいます。
コレは欲しい!
さっそく調査開始です。
取り急ぎ調べたところ、ファミ通限定初代beatmania専用コントローラー(以降、ビーマニコン)は3種類ある事が判明。
この時は正式名称が不明だったので、コントローラーの色からオレンジ、イエロー、ホワイトと呼んでいました。
どれも本体・箱共に意匠が凝っていて、箱説付きで欲しくなる逸品です。
調査中、メルカリでイエローを見つけたので即購入。
目立った傷のない箱説付き完品で、値段は5000円ほどでした。
数日後に届いた品物からさっそく情報収集です。
分かった情報は以下の通り。
・機能仕様は『beatmania CONTROLLER』と同じ
・シリアルナンバー付き
・型式はFAMITSU MODEL-F005
F005?Fはファミ通のFとして、005だとビーマニコンが全3種って情報と矛盾してない?
はい、調べ直しです。想定外の事が起きた時は粒度を変えて調べるのが鉄則。
ちょっと視点を上げ、ファミ通限定モデルという方向で調べたところ、ゲームボーイ本体の限定バージョンとしてファミ通限定モデルが2種類販売されていた事が分かりました。ただ、ファミ通限定ゲームボーイのパッケージ写真にはFと数字を組み合わせた型式表記は見当たりませんでした。どうやらゲームボーイ2種を後付けでF001・F002と見立てて、ビーマニコンをF003〜F005としたようです。
余談ですが、ファミ通限定モデルはビーマニコンが最終弾と思われます。ファミ通限定モデルの他の種類について調べましたが、どうやってもゲームボーイとビーマニコンしか出てきませんでした。2000年にファミ通の版元がASCIIからエンターブレインに変わった事を考えると、1999年発売のビーマニコンが最終弾だとしてもおかしくはありません。もしファミ通限定モデルに詳しい方がいらっしゃいましたら連絡をくださると嬉しいです。
そんなこんなしてる内、秋葉原でいつものお店周りの最中に偶然グレーを入手できました。
お値段4300円。ケーブルの見た目が状態難とありましたが目視確認では全く違和感がなく、箱説付きの完品でした。
いよいよ残すはオレンジのみ。
が、ここから全く見つからなくなります。
約3ヶ月、ネットやリアル店舗の中古販売網を漁るも成果はゼロ。
あまりの悔しさにSONYとコナミ非公認のbeatmania専用コントローラーであるDJ MANを買ったり、販売情報が掲載されたファミ通を取り寄せて各限定1500台である事を知ってへぇーってなったりしながらも、遂にその時は来ました。
とあるイベントの打ち上げでコレクター仲間と飲んでいた時の事。
この時は遠方へ2泊3日の旅行の最終日で、もしかしたらオレンジが見つかるかもと事前にゲームショップに目星をつけて回るも成果はゼロ。かなり落ち込んでいました。
こうなりゃヤケだ。ダメ元でその場にオレンジの情報持ってる人がいないか聞くことにしました。
とはいえ人に聞くには画像くらい用意しないと。慣れた手つきでネット検索をしたところ、なぜかトップに出てくる駿河屋。
普段と違う検索結果に違和感を覚えつつ、まさかと思いページを進んだ先。
そこにはハッキリと「在庫あり」の文字が表示されていました。
驚きと興奮のあまり一瞬戸惑いつつも状態を確認するとこれまた文句なし。
それでいて箱付き完品で値段は2000円という安さ。もちろん即購入。
これにてビーマニコンのコンプリート、達成です!
…と、素直に喜びたかったのですが、あまりにあっさりと急に達成してしまったので、これまでのやり方が間違っていたのではと疑念が沸いてきました。もっと楽にコンプできたのでは。別にそんな大変じゃなかったのでは、と。
そうこうしてる内にイベントの打ち上げは解散して二次会へ。ここで、そういえば普段他のコレクターさんの情報の集め方を聞いた事がないと気づき、思い切って聞くことにしました。自分のやり方が正しかったのか、確かめたかったのです。
その場にいた4人の方からいろいろと教わりましたが、共通していたのは「とにかく行動する」でした。
レトロゲーは情報が限られているから1人で出来ることに限界がある。でも、行動していると自然と周りに行動が知れ渡る。するとだんだん助けてくれる人が出てくる。そういう人から突然とんでもないものを貰うことがある。だから行動する。
ザックリとそんな話でした。
「今日ぼぶそんくんが探してたコントローラーを見つけられたのも、誰かに聞こうと行動したからでしょ。そんなもんだよ」
続けてそう言われ、何も言えなくなってしまいました。
よくよく考えればビーマニコンを探すきっかけも、game gameのTwitterスペースでコントローラーコレクターだと明かして話をしたからこそ、他の人から情報を貰えたわけです。
始まりも終わりも突然やってくる。でも行動しなければどちらもやってこない。
ビーマニコン探しの旅は、そんな当たり前のことの重みを学べた旅でした。
風ノ旅ビト
文/ canavis
戦争のニュースをよく見るようになった
悲しいニュースが日常になった
SNSでは誰が悪人かを探す人が多い
だれが差別主義者で自分はそれに含まれないと
主張する人が増えた
ある日突然旅をすることになった
自分にできることは
歩くこと
踊ること
空を泳ぐこと
世界を観ること
同じ旅ビトに出会うこと
しかし、旅ビトになると
言葉を介すコミュニケーションはできなくなる
砂漠、城、海底、雪山
数多くの場所を観てきた
その道中同じ旅ビトと出会った
彼らは誰なのか?
いい奴なのか、悪い奴なのか
人の為に泣ける人間か
レイシストか
私には相手を知ることができず、そして相手も
私を知る由がない
私達ができるのは
踊ること
そして同じ世界をみることしかない
砂漠の土埃
海のにおい
雪山で眺める白の世界
私達は旅の道中、で様々な風景をみて
同じ感動を得てきた
相手がなにを思う人なのか?
それを問う手段はない
ただ同じ風景をみて感動している
その事実に平和とは何か その一端をみた気がする
ゲームと旅と冒険と
文/ ぱソんこ
今回のgamegame同人誌企画のテーマが旅ということで、筆者自身はVRゲームのライターなのでVRゲームと旅について考えていた。しかし、なかなか考えがまとまらなかったのでゲームにおける旅という言葉の印象を見直すところから始めた。
●旅と学習
旅という言葉をGoogleで検索して一番上に出てきた意味が「住んでいる所を離れて、よその土地を訪ねること」[注:1]だった。ただ単に長距離移動するだけなら旅とは見做されず、自分にとっての非日常な空間を訪問する意味合いが強いようだ。
現実世界に定住するゲーマーがゲームプレイを通して非日常のフィクションの世界を訪れる事象は旅と呼べる。逆にいえば、フィクションに定住し始めたら旅としての意味合いはだいぶ薄れる。
また、「可愛い子には旅をさせよ」という有名なことわざがあるように、旅はポジティブな人生経験であり、子どもやティーンエイジャーなど若者全般に推奨すべき行為として捉えられている。非日常の空間を訪問するのは自分の知らない生活圏、および未知への興味と学習である。座学でなくとも学習になることは山ほどあるのだ。
人間は生き延びるために未知を避けるか未知を学習して自分のものにすることのどちらかを選ぶことができるし、未知が既知になった状態を快楽だと感じる。しばらくすると既知に快楽を感じなくなるので、新しい未知を求める。
ビデオゲームには基本的に大なり小なり新規性のあるゲームシステムが用意されていて、新しいシステムに不慣れな初心者なプレイヤーがゲームプレイを通して新しいスキルを習熟する過程そのものをエンターテインメントとして提供している。これが一般的にゲーム性と呼ばれる曖昧な概念だと筆者は認識している。
ゲームクリアというのはプレイヤーが非日常の世界をものにして日常になった状態と言えるかもしれない。
●旅と冒険
ただ、筆者としてはビデオゲームはどちらかといえばフレーズとして”旅”よりも”冒険”の方がよく使われる印象を抱いている。そこで今度は”冒険”を検索してみると「危険をおかして行なうこと。成否の確実でない事をあえて行なうこと。また、そのさま」[注:2]と出てきた。
筆者は冒険という言葉に旅と近いニュアンスが含まれると予想していたので意外だったが、「危険を冒す(あえて実行する)」を縮めると”冒険”になる。人類にとって自分の生活圏外の場所へ向かう行為が「冒険」だった時期がずいぶん長かったのだろうか(場所によっては今でもそうだが)。
ゲーマーにとって冒険、すなわちアドベンチャーという言葉はとてもなじみ深い。アクションゲームはプレイヤーが危険を冒してリターンを得る(日本では桜井政博氏が提唱した”リスクとリターン”[注:3]が有名だが、英語だとRisk and Rewardと言う)構造で回っているし、逆にプレイヤーが危険を冒すことよりも物語の受容に比重を置いたゲームをアドベンチャーゲームとよぶ。その中間としてアクションゲーム的なシステムを基盤としながらもストーリーテリングに重きを置いたゲームをアクションアドベンチャーとして扱われる。
現代において超大作のビデオゲームはほぼほぼアクションアドベンチャーを自称しているか、そう呼ばれる。ほどほどに危険を冒すスリルを味わいながらほどほどに物語を受容したいのが一番多いゲーマーなんだろう、たぶん。特にアクションとストーリーテリングの融合は欧米のスタジオが特に気にしているが、日本だと割と別々の需要として割り切られている印象がある(この話題を掘り下げるには時間が足りないので、別の機会に回します)。
余談だが、オープンワールド形式のゲームでよく見られる機能として「ファストトラベル」と呼ばれるものがある。これはプレイヤーがすでに訪れたことのあるロケーションを再訪する手間を減らすために旅の行程(今いる場所からその場所まで直接向かう)をショートカットすることができる。ファストトラベルはゲームの旅情を損なう機能として批判されることがあるものの、多く採用されているということは既知の場所の再訪の過程がエンタメとしての面白味(新規性のある情報)がやや欠けてしまう傾向にあることを意味している、ような気がする。
●旅とVR
筆者はVRゲームのライターなのでそれについて話すが、ぶっちゃけるとVRで”旅”を味わう機会は現状だとまだまだ少ない。
ビデオゲームで旅のような感覚を実現するには一つのゲームの中である程度のボリュームとバリエーションを用意する必要がある。通常の大作ビデオゲームをVRに変換する試みはいくつか行われてきたが、それらは大抵既知の体験なので初見時の感動には及ばない。また、VR専用として設計されていないゲームのインターフェースをVR用に作りなおすのはよっぽど骨が折れるので、ちゃんと上手くいった例は少ないのだ。これらの変換をMODでファンが勝手にやっていることもあるにはあるが。
最初からVR専用ゲームとして設計されている場合、次はVRゲームとして採算が取れるかどうかが重要になってくる。現状まだAAAゲームと比べると予算も開発規模も小さい状況でVRゲームが作られるので、旅っぽさを重視したVRゲームの数も少ない。
また、先述のファストトラベルにも通ずる話だが「移動するだけで楽しい」をビデオゲームで実現するのはかなり骨が折れる。何なら移動はVRゲームで最も妥協される部分なので、移動自体が楽しいVRゲームを作るのはけっこう大変なのだ。妥協しやすい理由としては、移動する際にどうやってVR酔い対策をするか考えなければいけないことと、現状のVRは手と腕を動かすことに面白味を見出しているので、手と腕だけで移動の面白味を作ることもまあまあ変化球が必要となる。
とはいえ、筆者はVRゲームライターである以上にVRゲーム開発者としてゲーム会社に勤めている。VRゲームを発展させるために筆者自身がそういった企画に携わる可能性もあるので、そのときはVRゲームで旅情を感じさせるような物を作れるように尽くしたいと思う。
●出典
以下のリンクはすべて2022年11月26日にアクセスした
[1]旅とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%97%85-562201
[2]冒険とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E5%86%92%E9%99%BA-627422
[3]リスクとリターン 【ゲーム性】(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=cTSMohV3TgQ
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