「有馬記念」という節目を終え~大晦日、そして生き直しです。
久しぶりの更新です。
僕にとって最大の山場と考えていた有馬記念が終了(テレビで観戦しました。もちろん馬券は買っていません)し、ほっと一息ついているところです。
*記事の骨子は12/23に書いていましたが、なんだかんだで公開が大晦日になってしまいました。
そんなわけで、自助グループに足を運んだ10/12からギャンブルを断った日数をカウントするようにしていて、今日が大晦日、「81日目」です。
偶然ギャンブルを辞め続けることが出来ていますが、もし仮にギャンブルをしてしまっても「また一からのスタートか…」とは考えないよう心の準備は済ませているつもりです。
突発的な症状(ギャンブル行動)が起こったからといって、自分の精神状態をまたゼロに戻す必要はない事を僕は既に学びました。
(これは担当して頂いている医師の言葉の影響が大きいです。)
ギャンブル依存症と向き合っていくにあたっては、自分をなるべく傷付けないことも大切なのかもしれません。
さて、ギャンブルを断ってしばらく経つ中で、手ごたえ的なものや、様々な心境面の変化を感じるようになりました。
相も変わらず、ギャンブルについて思考・ギャンブルをしたくなる衝動(渇望)は日常的に起こります。しかし、手ごたえ的なもの(自信と換言することが出来るかもしれません)や、心境面の変化がギャンブル行動に対するより大きな防波堤として機能しているような気がしているし、それらがギャンブルを断つこと以外においても効果的な作用をもたらしてくれている日常が確かに存在しています。総じて、良い循環が生まれているような気がしているのです。
自分を「ギャンブル依存症」と自覚してから、自らの意思でお小遣い制に代表されるような行動制限(対症療法)を選択し、日常生活に影響を及ぼさないような生活になっていた頃と比較しても、とても感じられることが出来なかったもので、僕自身明らかな変化を体感しているとこです。
もちろん、すこし変化を感じられたからといって偉そうなことを言うつもりはありません。僕はこれまで何度も失敗してきました。それに前述のように、ギャンブル行動への思考や渇望は相も変わらず訪れるわけで、自分がいつその波に飲み込まれてしまうかどうかも分かりません。
(もちろん、飲み込まれてしまう予定はありません。)
とはいえども、僕の中の変化は確実に起こっていて、それじゃあ何が変わってきているんだろう?という事について、下記にちょっと整理してみたいと思います。今回は大いに抽象的な表現も含まれるかもしれませんが、またいつかきちんと言語化が出来ると思います。
先立って、「自分がギャンブル依存症という病気を罹患している」という現実を、心の底から、本当の意味で受け止められた経緯ついて書いておきます。
これが「この病気と向きあう肝である」と認識することが出来てから本当の意味でスタートを切れた気がしているし、現時点において、他のどんなことよりも今の僕にとって重大なことだと位置付けています。
しかし、他のどんなことよりも重要だと考えることが出来るまでは、右往左往していました。
たとえば、グループワークや自助グループで出会った人たちは、ほとんどの人が「お小遣い制」を採用していました。家族やパートナーなどに対して、自ら資金管理を志願し、自分のギャンブル行動を止めようとしている前向きな行動です。もちろん、僕もそれを実行しているうちの一人でした。
また、現金を持たないこと以外にも「ギャンブル系の動画や広告を見ないこと」「パチンコ屋さんの前を通らないこと」「暇な時間を作らないこと(代替行動を作ること)」など、沢山の対処策があって自分が出来ることはとにかく全てやってみるということが大切なのだと思い、実直に取り組んできたつもりです。
しかしながらこれらの行動は、とても効果が大きい対症療法の一つである反面、「依存症という病気を治療することとは完全にイコールではない」と僕は考えることになりました。
それらは手痛い経験に基づきます。一週間で約30万円失いました。
僕は、両親に資金管理を自ら志願していたのにも関わらず、自分の生活に支障が出てこない程度に、小さなギャンブル行動をこっそりとすることがありました。
もちろん、資金管理を志願している時点では「ギャンブルなんて早く辞めなければいけない」「協力してくれている両親をもう裏切りたくはない」という強い気持ちを持っていたつもりです。
にも関わらず、いつの間にかギャンブルのことを思考していて、それらが増幅していき、強いギャンブル衝動に駆られます。
こうなった時に、「そもそも自分の給料なのだから」「必需品を買った後のお釣りだから」「すこし我慢できていたし、久しぶりにやるのだから」などと、いくらでも言い訳が思い浮かんできてしまい、結局はギャンブル行動を正当化し、たまには行ってきたのです。
・・・それでも、日常生活はきちんと回っていました。対策を立ててからの日々は、経済的に疲弊し、精神的なトラブルを起こしていたそれまでの日常とは明らかな違いがあったことも事実です。家族に協力してもらい給料を管理してもらっていた事が主な要因の一つです。
そんなわけで、僕の中でギャンブルを(少しくらいあるいはたまに)しても「問題はあるけど特に問題はない」という考えも頭の片隅にあったし、今振り返れば資金管理協力の手法に対して、すこしばかりの隙を設けていたことも事実でした。
それで結局何が起きたかというと、そんな甘い考えをしていたことが災いし、大きな痛手を負うこととなりました。
(2024年9月末~10月頭にかけて、約1週間で約30万円をすべてギャンブルで失いました。)
こうして、例のごとくですが遠回りをしながら痛い目に合うことで、より抜根的な「自分が罹患している病気は、脳内に重大なエラーが生じているギャンブル依存症というもので、治すことがとても難しい病気である」ということを、ようやく現実味をもって自己認識できるようになっていきました。
これまで述べてきたお小遣い制に代表される行動制限は、まさに対症療法(鎮痛剤のようなもの)として重要な役割を果たし、日常生活を安定化させてくれた一方で、僕の罹患している依存症を治療していくという目標からすれば、どこか物足りないものだと考えることにしたのです。ギャンブル依存症という病気は、簡単に治るものではありません。脳の構造自体にエラーを起こし、そしてそれを修復していくことはとても難しいことだ、と改めて思うことが出来ました。
(多くの書籍で書かれているように、ギャンブル依存症はきちんと治療すれば治る病気とも言われています。)
そういうわけで、通院・自助グループ・グループワークなどに主体的に参加することを通して、医師に相談したり、自己開示をしたり、自分の認知を矯正すること、そしてこれらをサボらず継続して行っていくことこそが、より根本的な治療に繋がるのだと考えるようになっていきました。
通院を再開させ、時間の許す限りは自助グループ・グループワークへ参加することに決めました。
(*あくまで個人的な考え方です。依存形成から治療法に至るまで人によってまさに千差万別であり、また精神疾患などの併発も起こりえるために、すべての人に適用できる考え方だとは思っていません。)
さて、前述した手ごたえ的なものはこの時点から生まれ始めていた気がしています。ギャンブルを辞めるための心構えそのものが姿を変えて、ようやく本当の意味でスタートラインを切れた感触を持ちました。ギャンブルを断った日数をカウントアップし始めてみた効果も大きいのかもしれません。甘い考えから招いてしまった失敗が、自分自身で大いにショックだったことも影響しています。もちろん、対症療法もこれまでと同じように継続しています。
そして、これらを軸としてギャンブルを辞め続ける中で、自分の中に「生き直し」というテーマが徐々に併存するようになりました。
もともと僕は、十数年ギャンブルにのめり込みようやく頭を打ちました。ギャンブルで問題を抱えていることについて洗いざらい自白し、借金問題をようやく直視できるようになりました。借金問題を解決しなければいけないと認識し、ギャンブル依存症という病気をどうにかしようと医療機関に繋がっていきました。それから、行動制限を志願しました。日常生活もそこから安定していきました。「借金問題を早く解決したい」「これからは人生を変えていくんだ」という意気込みを持つようにもなりました。(このブログを始めたきっかけも、そうした類のものでした。)
ギャンブルを辞める方法をいろいろと考えたり、前向きに何かに取り組もうという努力に繋がっていたことも事実です。
前述のような手ごたえ的なものも生まれてくるようになりました。精神科にいったって意味なんてない、と決め込んでいた通院を再開させ、本格的な治療へと繋がっていきました。
こうしてギャンブル依存症と向き合っていく中においては、「ギャンブルにのめり込んできて、本当に多くのものを失った」と考えることが頻繁にありました。「自分に残ったものは借金だけだ」という感覚すら覚えていたこともあります。こうした考えは、ギャンブル依存症と向き合っているどの段階の自分にも存在していたと思います。
端的に言ってしまえば、これらは自分の過去に対する大きな後悔です。ギャンブル依存症に蝕まれてしまった自分を後悔することが頻繁にあったのです。
しかし、現在ギャンブルを辞め続ける中で、「もしギャンブルにのめり込んでいなかったとしても、別に何も変わってなかったんじゃないか?」という思いが徐々に芽生えるようになってきました。後悔してしまう自分と、本格的に向き合うことにしてみたのです。
もしも自分がギャンブル依存症になっていなかったら、周りに人がたくさん付いていたのだろうか?結婚して子供がいて、マイホームを建てて幸せな家庭を築いていただろうか?ギャンブルをしていなければ借金こそないだろうが、前を向いて自信を持って、生き生きと人生を謳歌できていただろうか?
そう考えたとき、とてもクリアに自分を客観視できるようになって「自分の弱点と向き合う作業」が出来るようになっていきました。
自分の弱点に対して、
ギャンブル依存症だったからなのか?
もしもギャンブル依存症じゃなくても、弱点はあったんじゃないか?
・・・思いつく限り、振り分けていく作業をしてみたのです。
その多くはきれいに隔てられることはなかったけれど、それでも明らかにギャンブル依存症に影を落としていた「自分の弱点」というものが確かに存在していることがはっきりと認識できました。
僕は精神的に弱い人間でした。いやな事があったらすぐに逃げたくなる人間でした。人に嫌われたくないから、当たり障りのない対応をすることを好んでいました。いまでも人の誘いを断りづらい人間です。家族・友人を誠心誠意で慈しむことが出来ていませんでした。人を妬む気持ちが、もしかしたら人一倍強いかもしれません。人間関係を続けていく上での大切な一言や大切な連絡を忘れてしまうことすらありました。
・・・これらは一例ですが、自分で書いていてへこむようなことばかりです。それでも自分の弱点に整理を付け自覚できたことは、自分にとっては大きな前進だと考えていて、だからこそ今は「生き直し」の最中だと思っているのです。
具体的には、日常的に起こる出来事に対しての捉え方・考え方・反応など、どうにか修正していくような日々を送るようにしています。時には力不足を痛感しますが、決して「過去、ギャンブルばかりしてきた人生だから・・・」と後悔することはやめて、自分の力不足を素直に認め、そしてそれをどうにか克服していこうと奮闘しています。そうした行動全てが、自分にとっての「生き直し」と定義付けています。
しかしながら、こうした中でも自分にはギャンブル行動への思考や衝動(渇望)はどうやっても生じてきます。
端的に言えば、僕がギャンブル依存症という病気だから仕方がない事なのです。(自己弁護のようで申し訳ございません。)
だからといって簡単にギャンブルに手を付けるわけにはいきません。
生き直し中の僕にとっては、ギャンブル行動が大きな障壁になってしまうことは明らかです。
例えば、たまには少ない軍資金でギャンブルをして、万が一勝ってしまったらどうなってしまうのでしょうか。僕はたぶん、潤沢な勝利金を使ってしばらくの期間、ギャンブルにのめり込んでしまうのです。この時点では、今までつなぎ合わせてきたことが、どうでも良くなってしまうでしょう。そうしてまた夢中になっている最中、積み上げてきた自分の考えの多くを忘却してしまうことがどんなに損なことなのだろうとも思えるのです。
ギャンブル行動による一度の金銭的な失敗はまだしも(決して落ち込み過ぎないにしても)、生き直し中の僕にとってはギャンブル行動が続く日常だけは、何がなんでも食い止めたいと強く考えているのです。
こうして、自分の弱点を克服する生き直しは、僕がギャンブルを辞め続けていくことに対して大きく作用してくれていると実感することが出来ている現状です。
総じて、ギャンブルを辞め続ける自分・弱点と向き合う自分の間で、とても相互に良い循環が生まれているような感覚を持てている気がするのです。
ギャンブルを辞め続けることで、毎日積み上げていこうと思っています。
こうして良い循環を迎えたいま、ギャンブルを辞め続けることが出来ています。しかし、間違っても「ギャンブルはもう辞めることが出来た。」と思いあがるつもりはありません。そんな甘い病気ではないことは、これまで痛いほど体験してきました。
その一方で、これまで述べてきた通り手ごたえ的なものがあります。そして「生き直し」を継続的・習慣的にやっていこうと前を向いて、日々を過ごすことが出来ています。
もちろん、自分が根本的な治療と位置付けている通院・自助グループへの参加・グループワークを始めとしたギャンブル依存症についての勉強を継続的に続けていくことも重要です。対症療法も続けています。
そして突き詰めていけば、「頑張れない自分」というのも存在します。
頑張りたいけど、そこまで全力で頑張れない自分です。目標設計があいまいで、何をすれば良いのか分からないことがまだまだ沢山あります。
それに関連して「生き急ぐ」という気持ちも生まれてきます。この「生き急ぐ」気持ちの中身は主に経済的なことです。少しずつ上向いてきていますが、これまでの生き方を考えれば、とても取り返せるような生活とは言えません。
換言すれば、「お金を稼がなければいけない」という事です。「だったら副業でもしてもっと働こう」と身体がすぐに動けば良いのですが、フルタイムで仕事をしていることもあって、その決断すら簡単に下すことが出来ません。Xのフォロワーさんなんかを見ていて、勇気をもらえる反面、どこからそんなエネルギーが沸いて出てくるのか不思議に思うこともあります。
最後にネガティブなことを書いてしまいましたが、それでも前進していると信じ込み、前を向いているつもりです。また、年末年始の休みを利用し、なんとか整理を付けたいとも思っています。
前向きな答えを出して、それらを記事にしたいと思っています。
それでは、長文をお読みいただき、ありがとうございました。