人生は旅であり、旅とは人生である
「人生は旅であり、旅とは人生である」この言葉は、中田英寿が2006年のドイツW杯の後に、引退発表したときのブログのタイトルである。
中田英寿は日本を初めてのW杯に導き、21歳の若さで当時世界最高のセリエAに移籍して、その後29歳まで世界と戦い続けた、サッカー選手。ドイツW杯の最終戦ブラジル戦のあとピッチに倒れこむ彼の姿は、サッカーを始めたての当時6歳の私にも強く印象に残っている。
29歳の若さで突然引退をした、孤高のプレイヤーの心を克明に綴った人物ノンフィクション「中田英寿 誇り」を読んだ。
2007年に出版された本で、彼の引退から15年になる。今更感はあるが、サッカーを10年以上やってきた身として、中田英寿とはどういうプレイヤーだったのか知りたくて手に取った。
とても面白い本だった。個人的にスポーツ選手の本は、「努力は報われる。スポーツは素晴らしい。」みたいなイメージであったがこの本は全然違った。彼は理想のサッカーを目指して努力を続けたが、最後までたどり着けなかった。そこには遺書のようなリアルで苦しい彼の思いが鮮明に綴られていた。
ドイツW杯と言えば、中田をはじめ、中村、小野、高原、小笠原、中沢、川口など歴代トップクラスのタレントがそろい、ジーコ監督のもと挑んだが、1分け2敗と大敗した大会だ。日本サッカーの大きな転機の一つでその後、日本の多くの選手が海外に渡ることになった。
その戦いを戦った選手たちも世界との差を実感して、多くの選手が海外にわたり、Jリーグに帰ってきて、体験を伝える役割を果たした。
1998年から世界の最前線で戦い続けた中田と他の選手の温度差は激しく、中田は孤立し、今でもこの大会の敗北はチームの空中分解だといわれることも多い。中田が主張し続けたのは「どんな相手にも前から全力で挑むこと。」戦術的なことで言うと「DFラインを高く保ち、前からボールをうばいにいくこと」だった。他の選手はしっかりブロックを敷いて、奪いに行きたいと主張して、中田とぶつかり合う。これには正解はなく、その時のトレンドやチーム状況にも左右される。
中田が苦しんだのは、中田が主張しても、相手が主張するわけでも中田の意見に納得するわけでもなく、議論ができなかったことだ。彼はチームとコミュニケーションがとることができないままピッチを去ることになる。
プレミアとブンデスを制した香川、ACミランで10番を背負った本田、当時欧州チャンピオンのインテルで活躍した長友、チャンピオンズリーグ準決勝の舞台に立った内田、最近はリバプールに移籍した南野、レアルに移籍した久保など、世界で活躍する選手がどんどん増えている。日本代表が全員海外組ということも珍しくない。
中田が目指していた日本サッカーに少しづつ近づいているように思える。彼は今の選手が見ているサッカーを20年以上前から肌で感じていた。今でも海外とJリーグの差は激しく、中田がチームメイトと衝突したのもしょうがない部分もある。
この本には中田が本当にサッカーを愛していたこと、日本代表の力を信じていたことがにじみ出ている。だから常に全力でサッカーに向き合い、29歳の若さで限界を迎えてしまった。
この本で特に印象に残っている言葉が二つある。
一つ目は日本サッカー協会の会長だった川淵のジーコのサッカーについて言った言葉だ。ジーコは選手に自由を与えて、戦術をまったく与えなかった。
ピッチで自由であるためには、まず選手が自立している必要がある。しかも、自由にプレイするためにはそれだけの能力がなければならない。それには自らを律し、能力を高めるための不断の努力が必要になる。つまり、ジーコが選手に与えたのは、「自立」と「自律」に支えられた自由だったのだ。
二つ目はこの本のタイトルでもある「誇り」に対する中田の考えだ。
彼は誇りとは「全力を尽くす、妥協せずに戦うこと」だといっていた。
自由のためには、誇りを持って戦わなければならない。誇りを持つためには自由を求めて、自立をして努力をしなければならない。
今、私は誇りをもって何かに戦うことが出来ているのか?中田にとってのサッカーは大学生の私には、勉学であり、成長だろう。誇りをもって、大学生活を送らなければならない。本当の自由を手に入れるためには。
いつか大学時代を振り返って、あの時も自由を求めて誇りをもって生きていたと思えるような生活を送りたい。そしてこう言いたい。
「人生は旅であり、旅とは人生である」