文明への郷愁について
アプト式列車に乗りたかったとおもうことがある。
スイッチバックであれば、もっといい。
その頃のイメージではスイスの山を越えるのだったが、日本でいえば、大井川線でもいい、碓井でも構わない。
ギリギリと音を立てて軋む歯車の車輪の音を訊きながら、竹の箸を使って、駅弁に舌鼓を打つ。
ほんとに舌鼓を打つと、西洋なら誰も一緒に食事に行ってくれなくなってしまうが、碓井ならいいわけで、想像すると釜飯の、益子焼の釜を手に取っているが、多分「峠の釜めし」はアプト式の後なので、考証としては正しくないのではないだろうか。
くだらないことを言うと「アプト式」は殆ど日本語のような言葉で、例えば英語ならcog railway, rack-and-pinion railwayと、他の多くのことと同様、もっと説明的でフラットな名前で呼ぶ。
アプト式はAbt systemだと思うが、多分、日本ではcogwheel railwayのうち、この方式ひとつが輸入・紹介されたのでしょう。
しかし、アプト式、という日本語の言葉の響きが、古くて、特別めかしていて、嫌いではない。
「ガメは、ほんとうに古いものが好きだなあ」と、ときどきモニが呆れたように言う。
「呆れたように」と言っても、モニさんのことなので、なんだかやさしい顔です。
実際、「ガメの古いもの好き」は、そのとおりで、いつかtwitterでクルマは好きなほうだと書いたら、日本の人はweired社会ぶりを発揮して、
「いまの時代にクルマが好きだなんて人間の言うことではない。社会犯罪であるとおもう」と述べる人が、いっぱい来たが、少数派の、クルマはわたしも好きです、という人でも、ハイブリッドはやはりトヨタがいいですよ、と書いてあって、
カルマンギアよりも新しいクルマはクルマだとはおもっていないこちらは、挨拶に困ってしまった。
MGF?
MGはMGAですよ。
エンジンのトラブルが多い?
なにするものぞ。
一緒にドライブに行きたいんだったら、でっかい薬罐に水を入れたのを、忘れずに持って来てね。
日本が、ごくごく、ためらいもなく、気楽といいたいくらいに、第二次世界大戦に踏み出していったのは、第一次世界大戦を知らなかったからだ、というのは、よく知られているとおもいます。
青島かどっかに出かけて、ちょっと連合軍のお手伝いをしただけで、欧州の地獄の戦線を知らなかったので、近代戦争の悲惨を知らないで終わった。
塹壕を張りめぐらし、そのなかに籠もって、四六時中降り注ぐ砲弾に、気が狂いそうになりながら、あるいは実際に発狂して、急に静かになった緩衝地帯の、鉄条網の向こうを望見するために首をだしてみると、いつもの狙撃兵の銃弾も飛んでこなくて、しかし、なにやら緑色の霧が、向こうから、風上から押し寄せてくる。
毒ガスで、のども目も爛れさせながら、苦悶の末に死んでゆく若い兵士たちは、次第に文明への信頼を失って、例えば空中戦の終わりにはスカーフを振りあって、お互いの技量を称えあって帰途についたパイロットたちも、いつのまにか、銃弾を撃ち尽くして、
S字を描きながら基地に帰り着こうとする敵機を容赦なく蜂の巣にして撃墜するようになっていく。
突進力をもった戦車や、もっといえば核爆弾でさえ、短期に大規模戦争を終わらせて、第一次世界大戦のような終わりのない悲惨から若い兵士たちを救うために企画されたのを、きみは知っていますか?
両大戦に参加したひとびとは、異口同音に、第二次世界大戦は、悲惨の度合いにおいて、第一次世界大戦よりも遙かに「マシ」だったと述べている。
トーマス・マンもT.S. エリオットも、「人間の文明は1917年に終わりを告げたのだ」と認証しあっている。
では、そのあとの人間の歴史は、いったいなんの歴史なのだろうか。
英語人、特にアメリカ人と話していると、「 good war」という言葉によく遭遇する。
第二次世界大戦のことです。
人種優越主義に取り憑かれたナチ・ドイツと品性の悪い欲に狂った日本の「バッド・ガイズ」がいて、一方では連合王国、合衆国、英連邦の「グッド・ガイズ」がいて、勇戦力闘、紆余曲折、七転八倒のはてに、ついに正義が勝利を手にする。
第二次世界大戦では、敵に向かって射撃を命じると、9割方の兵士が命令に応じて射撃の火蓋を切った。
それが朝鮮戦争では7割になった。
ベトナム戦争では終盤は5割を切っていた。
後ろから撃たれて「戦死」している将校たちが無視できない数になっていた。
戦争にはgood warが存在しなくなって、奨学金や他の特典をめざして兵士になった湾岸戦争の頃になると、戦争はすでに戦争ではなくなって、単なる契約の履行になってゆく。
戦争に例をとったが、人間は1917年からあとは、沃地を追い出されて、いままで、荒野を彷徨うことを余儀なくされて、ここまで来たのでした。
あれから、人間の営為は、ずっと空回りすることになった。
正義の声は虚しく空に響く言葉になって、愛を囁く言葉すら単にセックスの欲望を遂げる交渉に変わっていった。
HURRY UP PLEASE ITS TIME
T.S. Eliotの「荒地」に出てくる、あの「声」は、売春宿の女将の声を装っているが、無論、
破滅に向かって急かされつづける、われわれ自身の神の声でもある。
きみやぼくが聴く声は、重層性も、複雑さも失って、ドアを叩きながら、女主人が大声で述べる、ただそれだけになっていった。
ぼくの友だちは、ガメが日本語にまで手をだすのは、あれは聖杯を探しているのだ、と酔った余興で同級生たちに述べたことがあるそうでした。
英語に見切りをつけて、あの愚かな我らの友は、ほかの言語のなかに神を探しにいった。
もちろんガメみたいに荒っぽい男が、聖杯を手に帰ってくることはないだろう。
彼はアーサー王のつもりなのか、それともランスロットのつもりか、
事実は漁夫王にしかすぎないのではないか。
だから、ぼくは、
アプト式列車に乗りたかったとおもうことがある。
出来ればスイッチバックであれば、もっといい。
その頃のイメージではスイスの山を越えるのだったが、日本でいえば、御殿場でもいい、碓井でも構わない。
ギリギリと音を立てて軋む歯車の車輪の音を訊きながら、竹の箸を使って、駅弁に舌鼓を打つ。
なぜかって?
それが最後に目撃された「文明」の情景のひとつだから。
現実からの逃避にしか過ぎないのかも知れないが、いまのこの世界で、現実から逃避する人間を指弾できる資格がある人間がいるだろうか。
いまの時代では、すべての現実における努力は現実からの逃避なのではないか。
きみとぼくと、日本語の沼沢地で、馬で乗り入れて、サドルまで水につかりながら、なんとか言語の向こう岸に渉りつけないかと考えている。
そのためには、どうしても、異なる文明に属する言語で、断たれた西欧文明を、もういちどつなぎ合わさなければならない。
いったん文明が修復されたら、そのあとで、なんとかして、ここにもどってきて英語では見えない地平線を、見渡そうと考えているのだとおもいます。