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華氏100度の夏に 第三回
6
お互いによそよそしい気持ちになりながら、それでも何事もなかったかのように、荷物を下ろして、ハグを交わして憲郎が案内されたのは、古い石造りの建物の内部をリノベーションで現代風にアパートに改築した建物で、全体の雰囲気から、家賃がずいぶん高いアパートであるのが感じられる。
正面の集合玄関には朝からそこに置きっぱなしになっているらしい新聞の束がいくつもある。
18年も経ってから、あのときとおなじアパートに泊まることになるとは、神様も奇妙な悪戯をする。
憲郎は、Airbnbで指定された番号を押して壁に作られたボックスから取りだした鍵で正面玄関ドアを開けて入ると、まるで30年のタイムワープトンネルを潜ってきたような気になる。
18年前、このアパートにはずいぶん苦しめられた。
そのころの憲郎にとっては、思いもよらないことだったが、外側の容れものが重厚な石で出来ていて、なかを現代の資材でリフォームした建物は、つまりは巨大な音響箱で、最上階の五階でおおきな音で音楽を鳴らされると、ほとんどそのままの音量が一階にまで落下して、聴覚に衝撃を与える。
もっと簡単にいえば、うるさい。
一階の部屋をあてがわれた憲郎は、到着した金曜の夜から、三日ぶっ続けで騒音にさらされて、
頭がくらくらした。
日曜の朝は、最悪で、休日の朝は、どんなに大音量で音楽を鳴らしてもいい、という不文律でもあるのか、合計8世帯が、狂ったように大音量の音楽を響かせて、あまつさえ、その暴力的な音の洪水に負けまいと住人が会話のつもりで絶叫するので、白人男たちの野太い声と、18年前もぞっとさせられた、どう表現すればいいのか、英語白人の若い男特有の、背筋がぞわぞわされられるような、あのバカっぽい笑い方で、
地獄そのもので、あれに較べれば、憲郎が好きな小津映画「東京物語」の、熱海の旅館での客達のバカ騒ぎに朝まで眠れない老夫婦などは、騒音に過敏すぎると言いたくなる。
18年経つと、どういう理屈があるのか、今日は日曜のはずだが、住民は予期に反して静かで、
偶々、以前と同じ部屋に予約したことになった憲郎は、まるで18年後の定点に戻って、アメリカ社会の進化と洗練を計測しているような気分になっている。
あれから、数学科を出て、修士号を取った憲郎は、数学の才能には限界を感じて、
就職することにした。
「外資系」を選んだのは、単純に給料の高さに惹かれたからだが、友人たちの「終身雇用のほうが結局は得なのに、きみは世間を知らない」という言葉を信じないですむ程度の叡知には恵まれていたことになる。
思ったほど、忙しくもなく、当の会社に前もって警告されたほど仕事がきついとも思わず、運がよかったのか、期待されないのがよかったのか、
一年の半分は5時に帰宅を許されて、最近では、会社には「用事があるときに出かければいい」ということになった。
確率遅延微分方程式に淫して、そればかりで遊んでいたのが幸いして、自分にも雇ったほうにもまともな知識があるとはおもえないが、連想ゲームのようにして、憲郎が必要な人材と判断したのだろう、採用されて暫くしたころ、上司にあるとき、「いや、ほんとは多変数GARCHモデルとかになると、理解が怪しいんですけどね」と酔った勢いで言ってしまってから「しまった」と思ったが、
上司であるほぼ同年代のオックスフォード大を出たその女の人は、ニヤッと笑って、
「ノリは、判ったふりが上手だから、それでいいのよ。貴重な人材だわ」と微妙な褒め方をされた。
初めから要職を与えられて、なにより良かったのは、おおぜいの頭の働きがよいひとびとと会えたことだった。
特にMITの数学コミュニティから生まれた一群の金融理論に長けたひとびとに会えたのは楽しかった。
なかでも最も優秀なひとは女の人だったが、MITは男社会らしく、
チャールズ川にかかる橋の長さを新入生を引きずって、「なん引きずりか」で表している、という文化で、男子校で6年間を過ごした割に、生来、そういう「男ワールド」的な雰囲気が好きになれない憲郎にとっては、距離を保てなければ付き合えない人達ではあったが、
しかし、頭の働きが明敏な人間と会話する楽しみは、東大ではついぞありえなかったことで、
これだけは、ほんとうに素晴らしかった。
MITの教師に誘われたときには、一瞬、心が動いたほどだった。
ワシントンDCは、18年経って、もちろん変わってはいたが、他の、例えばニューヨークのような町に較べれば、変化は少ない。
政治首都であるよりも、アメリカ中のお上りさんを集める観光地で、18年前とほとんど変わっているように見えないPennsylvania Avenueはもちろん、Capitol ThrillのようなTシャツ店や、お土産店もそのままで、見ていて、観光地というのは、あんまり変わらないものなのかな、という気になってくる。
待ちあわせ場所がDupont Circleのすぐ近くで、しかも待ちあわせ時間に少しあるのが判ると、むくむくと憲郎は、18年前に勇を鼓して入ったアメリカンダイナーに行ってみたくなってきた。
そのときが、アメリカンダイナーに入った初めだった。
あの暑い夏で、冷房があるのを確認してから、オアシスに辿り着いた駱駝のような気持ちでカウンターに腰掛けると、アイスコーヒーを注文した。
カウンターのなかにいるアフリカ系の若い女の人の反応は予期しないものだった。
「アイスコーヒーって、なんだ、それ?」
という。
慌ててメニューを出してもらうと、そこにはコーヒーはあるが、アイスコーヒーはない。
「アイスコーヒーなんて、聞いたことがない」
バツが悪いことに、親切のつもりなのか、奥の厨房に向かって、途轍もなくおおきな声で、
「ねえ、アル! あんたアイスコーヒーって、知ってるかい」
訊かれたシェフのほうは、そんなおかしなもん、聞いたことねえよ、と応えている。
なんだか「身が縮む」って、このことだな、と思いながら、それでも、その、態度はあらっぽく感じられるが、どうやら大変に親切な人間であるらしい、ウエイトレスに、
「じゃあ、アイスティーでいいです」と言うと、
「いやいや、あんたはアイスコーヒーを飲みたいんだから、アイスコーヒーを頼まないとダメよ。アメリカってのは、そういう国なの」
なぜそこで「アメリカという国」が出て来たのかは、歴然と外国人である憲郎にアメリカという自分の国への愛国心を発揮したのだとおもうが、「そういう国」とはどういう国なのか。
ちょっと考えてみたが、判らないので、促されて、コーヒーを氷にかけて、ガムシロップを入れるんです。ガムシロップって、ええと、砂糖を煮たものかな?
アイスティーにはガムシロップを入れないんだろうか。
ふむふむ、という真剣な顔で聴いていたウエイトレスの人は、でっかいマグに氷をいれてカウンターの上にドシンと置くと、コーヒーサーバーから、ジャブジャブとコーヒーを掛けている。
なんだか泣きたい気持ちになってきたが、折角つくってくれたアイスコーヒーなので、
ただでさえ薄いアメリカのダイナーのコーヒーが溶けた氷でますます薄くなった、なんだかうっすら褐色が付いた水みたいなものを、目を瞑る気持ちで飲むことになった。
「旨いか?」
とカウンターのなかで腕組みしたまま、ジッと「アイスコーヒー」を飲む日本人を見つめるウエイトレス
「おいしいです」と言うと、
「そんなわけねーだろ」とでも言いたそうに首を振って、厨房へ立ち去っていった。
あっ、まだある。
記憶のなかの古い店と再会する気持ちは、長い間、会わなかった旧友とひさしぶりに会ったときの気持ちに似ている。
ドアも、というよりambienceそのものが、18年前と、まったく変わっていない。
ドアを押して入って行くと、記憶が甦るようなカウベルが鳴って、
人気(ひとけ)がないカウンターに向かって歩いていった途端、あっ、と声が出るくらい驚いてしまった。
髪の毛に白いものが多くなっているが、見紛いようもない、18年前とおなじウエイトレスの人だった。
こんなことがあるんだろうか、とびっくりしながら、カウンターの、わざと18年前とおなじ椅子に腰掛けると、目を上げたウエイトレスの人も、驚いて目を見開いている。
「ヘーイ、どうしてた。すっかり大人になったじゃない、アジア人の坊や。
日本人だっけ?」
そうです。日本人。よく憶えてますね
「ははは、あのころはアジア人が珍しかったのもあるけど、あんたと来たら、手なんかガッタガタ震えていて、カワイイったら、ありゃしなかったもの。それにね。たった12ドルの支払いに20ドルもチップをくれたバカな客を忘れるほど、わたしゃ薄情なウエイトレスじゃないよ」
そうだった。
うまく英語でお礼が言えないので、せめてチップを弾もうとおもって、20ドル札を置いていったんだった。
どうしてた?
英語が話せるようになったのね
あのころ、話せたら、わたしは、あんたをデートに誘ってたかもよ、とウインクする。
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