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心は健常者?

常識的に考えて変な人に対して「障がい者」と言う言葉で罵るのをよく目にする。

大した意味もなく使っているだろう。誰かが言い出したのを面白がって、あるいは自分のコミュニティにおける面白い共通言語的な解釈で使っているのかもしれない。

ハンデを生まれ持っている人もいる。僕の兄もそう。
色々と大変なことはあったけど、兄の存在を疎ましく思ったことはない(幼少期の刹那的な感情はあったかもしれないけど)

家族もそうだ。悩むことはたくさんあったけど、1人の人間として、家族として受け入れている。

子どもの頃からいわゆる「障がい者」と呼ばれる人たちと関わる機会も多かったのもあってか、偏見のようなものは一般的な人から比べたらないと思う。

確かに「世の中の言う正常」には当てはまらないかもしれない。

でも1人の人間だ。僕らと果たしてどれだけ違うのか?
健常者と呼ばれる僕らだって1人1人は全くの別人。違う生物だ。障がい者と言われてもピンとこない。

それよりも。「健常者」と呼ばれる人達。本当にみんな健常なのだろうか。五体満足という意味では健常だろう。でもそれだけだ。

僕には「心が健常でない」人がとても多いように思う。

自分が何かしらの被害を被った。その加害者の様子を撮影しネットに晒す。警察を呼んで当事者で解決すればいいだけなのに「私こんな酷いことされました」とアピールして同情、共感を得たがる。

共感した方はした方で被害者に同調して、エゴで出来上がった正義を無闇に振りかざす。

もはや暴力なのでは?って思ってしまう。

みんな違う人生を生きているから、どうしてそんな風になってしまったのかはわからない。それぞれいろんな事象が折り重なった結果。

事故が起こればこぞって写真を撮る。その様を1歩引いて撮る。誰かが過ちを犯せば批判。悪いのはいつも自分以外の誰かのせい。

はたしてどちらが障がい者なのだろうか。なんだかわからなくなってくる。

前にも書いたかもしれないけど、やはり表面、一部分だけを見て感情優先で行動するのは非常に危険に思う。

そんな危険を感情で飛び越えてしまう人もいるけどそれは極々わずか。感情に振り回されている。

自他の境界が曖昧な人も多いんじゃないかな。他人事なのに自分に災いが降りかかったように感じてしまう。その共感性は素晴らしいものだけど、ちゃんと自分を持たないと危険だ。

人間の本能の部分もあるからどうしようもないのかもしれない。
でも自分で気付いて律することは出来るはずだ。出来ないのは楽しているだけ。

誰かが正しいことを言った。それは自分ではない誰かの言葉。それを自分の意見だと思っちゃいけない。同じ言葉でも込められている意味は同じじゃない。

感情より思考を優先しろというのではなくて。
両方のバランスを大切なしたいなってこと。

一人一人がバランスをとれるようになると、社会もバランスがとれていくのかもね。

難しいよね。

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