RADWIMPS恐怖症について
「なんでそんなにラッドが怖いの?」と問われると、「この人に伝わるかな」「伝わらなかったら、どうしようかな」と悩んでしまう。大体において伝わるのだが、うまくいかないこともある。そんな時、どうしても不安を覚えてしまうし、場合によっては自分が今まで積み上げてきた全てを、一気に否定されたような気持ちにもなる。
そんな僕は、当然ながら傲慢だ。大体の人にとってラッドなんてどうでもいい。きっとラッドだろうが、髭男だろうが、king gnuだろうが、バンプだろうが、同じように聞こえているのだろう。それが悪いってわけでもない。だから僕は、「なんでそんなにラッドが怖いの?」と聴いてくれる人全員に感謝しなければならない。世間的に見ればレアなその問いを発してくれること自体に、ありがたみを見出さなければならない。その先、つまり僕が言わんとしている事をわかってくれるか否かなんて、おまけにすぎないのかもしれない。
それでも僕は、「ラッドを恐れている」という事実に強いこだわりを持っているし、この事実に、僕自身の核となる物を見出している。もしかしたら、ラッドに感謝しなくてはならないのかもしれない。嫌いなはずの物にアイデンティティを見出し、感謝すらするという状態は、とてもひねくれているし、勿体ない。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ!」と叱られてしまいそうだ。
でも、何が好きか、と同じくらい、何が嫌いか、何を恐れているか、にも自分は宿るのではないか。むしろ、突き詰めると、それらは同じような物なのではないか。僕にはそう思えてならない。だから、僕の「ラッド恐怖症」について、今できる限り頑張って説明してみる。なんせ僕の印象に過ぎないのだから、明確な証拠を示すことはできないし、理解や共感を得られるかもわからない。が、興味がある人は読み進めてほしい。
僕のラッド像を一言で表すと「安っぽい自己陶酔」となる。楽して(この「楽して」という言葉は「小手先で」と読み換えてもらっても構わない)自分を肯定したい、楽して自分の凄さを示し、多くの人を圧倒したい。このような感情こそ、ラッドの核にあるように思える。
「なんちって」の英語部分、「いいんですか」のラップやレゲエを取り入れた歌唱、「五月の蝿」のエログロ描写、「スパークル」や「うるうびと」に見られる壮大な比喩、そして「me me she」「君と羊と青」『2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs』などのタイトルに溢れ出している夥しい言葉遊び。などなど全てが、どういうわけか、安っぽい自己陶酔の表れであるように聞こえて仕方ないのだ。じっくり何かを聞かすのではなく、わかりやすい物を総動員して、とにかく楽に、一刻も早く、陶酔したい、承認されたい。そのような、みみっちさを感じざるを得ない。
ラッドのフロントマン、野田洋次郎は、過去にその民族主義的、優生思想的な姿勢を批判されたことがある。「安っぽい自己陶酔」が彼を動かしていると思えば、これも納得がいく。民族主義や優生思想こそ、つまり差別こそ、他の何よりも楽に、自己陶酔を与えてくれる物なのだから。
そして、彼らが若年層から多大な支持を受けている理由もまた、「安っぽい自己陶酔」にあると思う。不安定な自己像に悩まされる思春期の少年少女は、日々必死こいて、楽に自己陶酔を得る方法を探し求めている。その要望にバッチリ答えてくれるのがラッドというわけだ。ラッドの言葉遊び、早口、エログロ描写等に身を任せれば、他とは違う特別な存在になった感覚を味わえる。カラオケで間違えずに歌い切った時なんか、白目剥いてしまうかもしれない。
つまり、民族主義や優勢思想に走りやすいという短所と、若年層からの支持を得やすいという長所は、全く同じ根から生えている。なので、「差別に繋がらないラッド」などあり得ないし、あり得たとしてもそのラッドは、今のように悩める少年少女から熱い支持を受けていないだろう。
余談だが、僕はかつてヒップホップの創始者、DJクールハークの「今のラップは暴力的過ぎる!子供たちが真似しちゃって困る!もっと自分の影響力を自覚してほしい!君たちが正しく振る舞えば子供たちも正しくなるはず!」といった趣旨の発言を目にして、憤りを感じたことがある。「子供たちはラップが放つ暴力性にこそ惹きつけられているとわからないのか!」と叫びたくなったのだ。ここにはラッドと差別の関係と近い構造がある。
ラッドの自己陶酔の恐ろしさは、その楽さ、小手先感と相反して、正々堂々としていないところにもある。つまり「今から自慢するぜ!」といって自己陶酔芸を始めるのではなく、大抵ラブソングや応援ソング、場合によっては自虐ソングの影に隠れて、それを行うのだ。
好きな人の素晴らしさを伝えるように見せながら、結局「好きな気持ちを、こんな比喩で、こんな言葉遊びで、こんな歌い方で表現できる俺凄い!」という所に落ち着く。心のどこかに「自己陶酔をぶちかまして、特別な自分を示したい!でも自慢したらみっともないと思われる。自慢したい!でもみっともないと思われたくない!いいとこ取りしたいなぁ」などといった都合の良い思いがなければ、前述したようなカモフラージュは行わない。
この卑怯さもまた、ラッドが若年層から強い支持を受けている要因だろう。というのも、先ほどのいいとこ取りは正に、多くの思春期が求めているものなのだ。人は多くの場合、自己の発露と、周りとの一体化の間でもがいている。家や学校に依存して生きている思春期の少年少女は特にそうだろう。そんな中、虫がいい自己陶酔をかますラッドが1200年周期の彗星の如く降り注いでくるのだ。嫌でも気持ちよくなってしまい、ラッドが自分の思いを代弁してくれている!、とブリブリになってしまう。
この虫の良さは、映画『天気の子』で使われた「グランドエスケープ」にくっきりと現れている。この曲の内容をざっとまとめると「世間の反対を押し切って好きな人と立ち上がる」となる。主人公が人身御供となった女の子を救うため、警察に銃を突きつけたり、東京を沈めたりする『天気の子』のクライマックスにふさわしい曲だ。
だが、そう思うと少し不思議なことがある。世間に反旗を翻すこと、多数派と違う方向に進むことの高揚感が描かれている曲なのにも関わらず、この曲のサビは、大量の手拍子と合唱に覆われているのだ。孤立することの喜びは孤立したような音で語られる方がより自然で、伝わりやすくもあるのではないか。一体何故?
その理由に孤立と埋没の良いとこどりをしようとする、虫のよさがないと考える方が難しい。
因みに多くのヒップホップとラッドの違いはこの堂々としていなさにあると思う。ヒップホップもまた、自慢や攻撃性を多々含んでいる分野である。しかし、僕はヒップホップに対して、ラッドほどの憎しみを抱かない。むしろ一番好きなジャンルだし、自分でラップをしたりもする。これはやはりヒップホップが堂々としている、もっといえば半ば開き直りのような態度を取っているからだろう。
ヒップホップは端から端まで、better than yoursと直接的にわめき散らかす曲で溢れかえっている。そここそ、ラッドとの違いであり、またヒップホップが日本であまり聞かれないことの理由かもしれない。「自慢はみっともない」という価値観から出ないまま自己陶酔を得たいような層に対して、ヒップホップは刺激的すぎるのかもしれない。しかし、だからこそ、僕はヒップホップを愛し、僕自身もヒップホップを行う人間でありたいと願う。
また、僕がラッドに対して感じている恐怖は、ラッドに影響を受けている他のコンテンツにも向けられている。今日、ラッドに自らを代弁してもらったと感じている人々の多くが、すでにクリエイターとして前に立っている。それほどハマってはいないが、マーケティングとしてラッドのような要素を作品に取り入れている、という連中も少なくないだろう。僕の恐怖は、彼らにも適応されるし、彼らを呼び込んだ時代そのものにも、ビンビンに反応している。
最後に告白しておきたいことがある。
2019年の夏、17歳の僕は『天気の子』を見て、大変な興奮を覚えていた。ラッドの奏でる「グランドエスケープ」が鳴り響くクライマックスでは、自分が可哀想な女の子を救い、世界に中指を立てるアンチヒーローになった気がした。自分と好きな女の子だけが他とは違う特別な存在であると、激しく信じた。映画館を出た後も繰り返しラッドを耳にぶち込み、何度も感動を呼び覚ました。「グランドエスケープ」の合唱部分から、集団に応援されているという安心感と、そこに抗っていくナルシシズムという、どう考えても矛盾した都合のいい感情を受け取り、自己を世界に立ち向かう純粋な少年という像で満たそうとした。
挙げ句の果てには、あり得ないタイミングで好きな女の子に自分の気持ちをぶつけ、都合のいいナルシシズムを、現実に移転させようとした。そして嫌われ、色々な泥をベロベロ舐めるに至った。
この文で散々悪く言ってきたラッドのファンたちは、僕自身だ。僕自身だった、とは言わない。あの僕は今の僕の中にも確実に生きている。僕がラッドを恐れる最大の理由は、僕の中にまだラッドファンが潜んでいることだ。
言うまでもないが、僕はラッドファン的虫の良さを卒業したいと思っている。だが、どうすれば良いかわからない。とりあえず、足掻いてみるかと思い、この文を書いてみた。
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