ピューリッツァー賞みたいな映画だな〜映画『シビルウォー アメリカ最後の日』感想〜
ピューリッツァー賞みたいな映画だな。僕が今年ベスト候補の超面白い映画『シビルウォー アメリカ最後の日』を見て覚えた感想をまとめると、こうなる。
ここでいうピューリッツァー賞というのは、あの有名な特集写真部門のことだ。明らかに死に瀕している黒人の少女がハゲワシに狙われている写真、およびその撮影者が「なぜお前は呑気に写真なんか撮っているんだ!彼女を助けろ!」という批判を受けて自死してしまった事件などで有名なあれのことだ。
その他の受賞写真を見て貰えばわかるのだが、ピューリッツァー賞を受けた報道写真はいずれも、残酷でありながら美しい。演出されたものでは一切無いはずなのに、綿密に計算されたかのように、象徴的な出来事が美しい構図の中に収まっている。
世界の負の側面が詰まりまくっている写真が、どう見たって美しいということ。美しさゆえにその写真に象徴されている出来事の残酷さが際立ったり、残酷さ故に美しさが際立ったりしているということ。しかもそれが、あくまで報道写真であり、非作為的な手触りを帯びたものであるということ。これらが僕の言おうとしているピューリッツァー賞らしさだ。
USAで内戦が起きてしまった未来を舞台に、戦場へ赴くジャーナリストたちの姿を描いた映画『シビルウォー』を見始めた時、僕は少々不安を覚えた。これでもかと「音にこだわってまっせ!」と主張してくる音響演出、スパイダーマンのM Jと同一人物とは思えないほどの渋さを醸し出す、キルスティン・ダンストの澱みまくった表情。遠くの爆破攻撃が揺らすホテルの窓。などなど、面白い要素も沢山あったのだが、「ちょっと映像の色味がプレーンすぎるのでは?本当に『エクス・マキナ』の監督とA24の映画なのかよ」、と思ったことは否定できない。
「特に映像表現には拘らず、設定がもつ批評性と臨場感で突っ走る映画なのかな」と思ったりもした。できる限り画を通してうっとりしたり、衝撃を食らわされたりしたい僕としては、この問題はそこそこ深刻だ。画質が悪いとか、色味がダサいとか、そういうわけでは全くないし、クオリティとして申し分ないはずなのだが、個性が見当たらない、いわばBSのNHKで流れている高クオリティなドキュメンタリーや旅番組みたいな質感の映像。嫌いじゃないけど、ずっとこれかよと。
まあ楽しもうと思って見ていくと段々、「ん?もしかして最初に抱いた不安はマジで杞憂にすぎなかったんじゃない?」となってくる。ただ、それは映像がプレーンでは無くなった、という意味ではない。あくまでプレーンなままだが、それがいい、そうじゃないと成り立たないことが起こっている、と感じ始めたというわけだ。どういうことか。
映画用に調節された痕跡が感じ取れないプレーンな映像が、左右対称だったりする、やたらかっちりした構図の中で、内戦という悲劇を象徴する出来事を捉えていくのだ。戦争の影響で閑散としてしまったNYに刻まれる落書き。主人公たちが大麻などを嗜んでチルする中、夜空に浮かぶ砲撃弾。捕えられた敵兵たちが、白昼堂々一気に射殺される様。これらが作為性をもぎ取られた質感と、かっちりした構図で、大体の場合小刻みに揺れながら捉えられている。
ピューリッツァー賞を取るような写真は多くの場合、写真だからこそ、アイコニックなものとなれたはずだ。世界が動く様をそのまま記録する映像ではなく、決定的な瞬間だけを凍結させる写真だからこそ、僥倖と皮肉が同時に起きているかのような作品を産み出せる。
そのはずなのに、『シビルウォー』がやっていることはなんだろう。不可能なはずの映像版ピューリッツァー賞受賞報道写真のようだ。勿論、いくらナチュラルでプレーンな質感の映像で撮られているとはいえ、ここで描かれていることは全てフィクションであり、丹念に編まれた創作物だ。しかし、だとしたら尚更不思議に思える。この映画の画は、劇映画であるくせに、ピューリッツァー賞的な生々しさと象徴性と美しさで満たされているのだから。
この感動と衝撃は、果たして僕が序盤で求めていたような、「映画的」で「個性的」な映像でも出せただろうか。200%あり得ない。いわゆる「映画的」で「個性的」な映像を選択しなかったからこその残酷さと美を、僕は危うく手放しそうになっていたのだ。まったく、危なかったぜ。
言うまでもないが、このピューリッツァー賞スタイルは、近未来の戦争をジャーナリストの目を通して追うという、作品全体のコンセプトとガッチリ重なり合っている。正に今、主人公たちによって撮られようとしている写真が、映像となって映画自体を形作るという、何とも幸福な自己言及が絶えず繰り返されているというわけだ。
話を前に戻すが、ピューリッツァー賞を受賞した報道カメラマンが「なぜ少女を助けず写真なんぞ撮っているのか」と批判されたという話があった。このような批判は、確実に『シビルウォー』の主人公たちにも当てはまる。なんなら実際のカメラマン以上に、そう批判されても仕方ない状態にいる。
というのも主人公たちには、ジャーナリストという客観的な立場に身を置くことで、自らを残酷な世界から切り離そうとしているきらいがあるのだ。わざわざ、最前線に乗り込んでいくのも、「こんな危険な場面にいても、私たちはあくまで情報を収集したり、その場を取ったりするだけの、部外者なのだ」という感覚を通じて、改めて切り離されている感を強化するためとも取れる。
ヴァグネル・モウラが演じるジョエルという男性記者が、激しい殺し合いを見て、「興奮するぜ!」「勃起しちゃうぜ!」などといった発言を繰り返し行うのも、そういう意図の基だと、自分には見えた。いつもは情に熱く、人と戯れ合うことが大好きなジョエル。そんな彼が、陰惨な殺し合いを目撃して、勃起しそうだと叫び散らすのだ。勿論、危険な場面に遭遇してドーパミンが出まくっているということもある。いかなる逆説的なニュアンスもなしに、危険な場面に対して興奮を覚えてしまうことは、誰にだってある。しかし、普段の彼の様子を見ると、どうもそれだけとは思えない。
また、キルスティン・ダンスト演じるリーが、拷問を受けて死にかけている人々の写真を、正に彼らを痛めつけた男と共に撮影する場面も出てくる。彼女はその後、ケイリースピーニー演じる新人カメラマン、ジェシーに対して、私たちはあくまで記録する人間なのだ、と語りかけるのだ。この場面は最も直接的に、彼らがジャーナリストという役割を通じて、残酷な世界から距離をおいている事を示している。
さて、何とかして世界から距離を置き、平静を保とうとする彼らの欲望は、最後まで報われ続けるのだろうか。ジャーナリストだからといって、暴力から身を切り離し、同じ職業の仲間同士で絆を育んでいくという、虫のいい作戦は最後まで上手くいったままなのだろうか。
勿論、そんなことはない。彼らを守ってくれるはずのジャーナリズムという鎧は、あえなく崩壊し、その鎧自体も一つの暴力装置に他ならなかったことが、はっきりと暴露される。何ならその崩壊、その暴露こそが、『シビルウォー』という映画が描き出す最大のテーマとなっている。ではこのテーマは、いかにして浮かびあがり、主人公たちに襲いかかるのか。
言うまでもないが、それはピューリッツァー賞的な画でもって、なされなければならない。ジャーナリズムもまた、人を危険に晒す暴力であり、決して世界から主人公たちを守ってくれる鎧とはなり得ないということを、美しく、そして偶然性と象徴性を兼ね備えたまま伝えてくれる、見事なショットで語られなければならない。それがこの映画を貫いてきた素晴らしいスタイルである以上、最も肝心なところで崩すわけにはいかない。むしろ、最もスタイルを炸裂させなければならない。
でも、それを成し遂げるような完璧な場面なんてそう簡単に作れそうにない。本当に大丈夫なのか。
安心して欲しい。バッチリ成し遂げられている。
終盤のホワイトハウスに乗り込む場面、報道カメラマンとして決定的な一枚を撮ってやろうと意気込むジェシーを庇って倒れるリー、その様を茫然自失状態で眺めるジェシー。この時、カメラを抱えたまま倒れ込み、目をガバッと見開かせたジェシーの背後には、大量の薬莢が転がっている。映画はそんな象徴的な場面を、生々しさや臨場感を残しつつ、左右対称のかっちりとした構図で切り取って見せる。
「銃を撃つことも、カメラで撮影を行うことも、英語ではshootなのだ」とか、偉そうな説教を挟むまでもないほどに、この場面は決定的だ。そしてこの瞬間『シビルウォー』という映画は、見事にスタイルを貫き切り、これまでにない美しさと残酷さで観客を引き裂く名作として、自分の中に刻まれ続けることを確定させたのだ。
これからも『シビルウォー』はことあるごとに、見たものに世界の美しさと残酷さを思い出させ、そこから身を退くことの不可能性を思い知らせていくだろう。当然恐ろしい映画ではあるし、何度も耳穴に指をブッ刺して、ビビり散らかしながら見たのだが、本当にこの映画と出会えて良かった。
ちなみに自分がこれほど『シビルウォー』にハマり込んでしまった背景には、近代資本主義に覆われた大都市での戦闘シーン(もっと言えば夜行戦!)とケイリー・スピーニーが好きすぎることも確実にある。
戦火で彩られた夜のDCを、それまでとは段違いに引き締まった表情で駆け抜けていくケイリー・スピーニー。邪魔にならないように束ねられたその髪すら、戦火に美しく彩られているという皮肉。実際はそんなことないはずなのに、それまでの幼かった彼女が一気に我々を置いていって、成長してしまったような感慨に襲われる。
カッコ良すぎるし可愛すぎるし、キュンキュンしちゃうわよ。マジで
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