サムエル記下 13章/父としてのダビデ、王としてのダビデ
・本章を一言でまとめると
ダビデの三男アブサロムは姉を強姦されたことで異母兄のアムノンを憎む。アブサロムは祝いの席で彼を殺し、復讐を果たす。
・心に残った聖句
・皮肉に満ちた悲劇
本章は皮肉に満ちている。息子たちはダビデの人生を韻を踏んで繰り返す。
①ダビデは他人の妻バトシェバを寝取ったが、本章ではダビデの長男アムノンは異母妹タマルを強姦する。
⓶かつてダビデは羊毛の刈り取りを祝う日に、王の宴会にも似た宴会をする"愚か者"ナバル(サムエル記上 25:25、36)への復讐を思いとどまったが(サムエル記上 25:4-8、32-33)、三男アブサロムは同じ祭りの日に"愚か者"ナバル(13節)を王の酒宴のような酒宴(27節 フランシスコ会訳)の最中復讐を果たす。
③サウル王に追われたダビデは母方の異民族モアブの王に両親を託したが(サムエル記上 22:3-4)、兄を殺したアブサロムも自分の母方の異民族アラム人の王の元へ逃げる。
これらの繰り返されたパターンのうち⓵と⓶に関しては明らかに悪化している。ダビデはバトシェバの一件を悔い改め(サムエル記下 12:13)、未亡人バトシェバを妻に迎えるが、長男アムノン(忠実な者の意)は親友ヨナダブ(神は喜んでくださるの意)の助言に基づき異母妹を強姦しても悔い改めるどころか彼女を憎む始末である。
⓶に関しては、名誉を穢されたダビデはアビガイルの助言により自分の手でナバルに復讐せず神にそれを任せるが、姉の名誉を穢されたアブサロム(平和の父の意)は神に復讐を任せず「これはわたしが命令するのだ」と言い放ち、自らの手でそれを成し遂げる。
そして言うまでもなく最も皮肉なのはヘト人ウリヤをアンモン人の剣で殺した際に「そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。」と言い放ったダビデとその王朝から永久に剣が離れはしないことだろう。
1.父としてのダビデ
ダビデはバトシェバとの子が弱っていた時には断食して泣き、長男アムノンが病に伏せていると思えばそれを見舞う(6節)ように父としての愛情を持つ人物として描かれている。
が、それと同時に我が子が死ねば「断食したところで何になる」と言い放ち、長男が死んでしまえばそれを殺した三男に王朝を継がせようとする極めてドライな人物としても描かれている。
個人としてのダビデは息子たちの死を悲しみ、泣き、断食もするが、愛情と政治が対立するとダビデは必ず政治を選ぶ。
このダビデ像は後に反乱を起こした息子アブサロムが死んだ時に泣き、悲しむ父としての自分よりも王として息子を討った兵士たちを労うダビデ(サムエル記下 19:2-9)に最もよく表されているように思える。
このようなダビデ像にはキリストの予型、神のこころに適う者(使徒 13:22)と語られる人物として相応しくないと感じるクリスチャンが大半ではないか。
2.英雄としてのダビデ
ダビデは乏しい羊飼いながら巨人ゴリアテを倒す。このように神は信仰者に力を与える。
このような語られ方がクリスチャンに一般的なダビデ像である。
そしてこれは別にクリスチャンに限った話ではなく、ユダヤ人にとってもそうである。
サムエル記だけではなく歴代誌にもダビデの歴史物語は描かれている。バトシェバの逸話や息子たちの兄弟殺しはそもそも記述すらされず、ひたすら神の敵と戦い勝利し、神殿建設に邁進する偉大なる王ダビデが歴代誌には居る。
これも一つのダビデ像である。が、ならばサムエル記に描かれたダビデとは何なのか。
3.王としてのダビデ
サムエル記のダビデは歴代誌と異なり偉大な王ではない。それは特にダビデのストーリーが下降仕出してからが顕著である。
彼は兵士たちの面前で王位を僭称し反乱を起こした我が子の助命を将軍ヨアブに嘆願するが、その命令は無視されアブサロムは殺されてしまう(サムエル記下 18:5)。彼は王冠を戴いてはいるが無力な王でしかない。
無力な王ダビデは反乱を起こした実の息子から逃げ延びる際には裸足でオリーブ山を泣きながら登り(サムエル記下 15:30)、自分の敵となった息子の死を知り「わたしがお前に代わって死ねばよかった」(サムエル記下 19:1)と泣いたせいで「あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるのか」と部下になじられる。
神に愛されているならば不幸から守られるはずだ。神と共に在るならばその人は強いはずだ。とするならば、このようなダビデの弱さは到底容認できないだろう。なぜならば私たちがイメージする偉大な王とかけ離れているからだ。
上記の意味でやはりダビデはキリストの影である。
4.父としての神、王としての神
父としての自分と王としての自分が対立する時には、父親らしい愛情を持っているところはありながらもダビデは必ず王冠を選んだ。
彼にとって王国とは軍事力に代表される力であったのだろう。が、真に偉大な王とはそのようなものではない。真の王は仕えられるよりも寧ろ仕え、皆の僕として生きる。真に偉大な王は暴力に裏打ちされた権力ではなく、愛によって人間を治める。