ガリポリ

韓国系日本人のカトリック。 聖書通読チャレンジ記録。 サムエル記下1章までの記事は、はてブのそれをインポートしています。 はてブの跡地 https://gallipoli.hatenablog.com/

ガリポリ

韓国系日本人のカトリック。 聖書通読チャレンジ記録。 サムエル記下1章までの記事は、はてブのそれをインポートしています。 はてブの跡地 https://gallipoli.hatenablog.com/

最近の記事

列王記下17章/むなしいものを追い求めて自らもむなしくなる

本章で北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ滅亡し、イスラエル人たちは捕囚の憂き目に会う。 そしてそのような結果を招いた原因として偶像崇拝が糾弾される。 北イスラエル人たちは"目に見える"鋳造を拝むために作り、唯一の神ではなく"二頭"の子牛の像を拝み、"アシェラやバアル"という彼らをエジプトの地から導き登った主以外の神を崇め、"単なる法則や自然現象に過ぎない"天の万象にひれ伏し、"未来を知る為の"占いやまじないに親しんだからだと。 これら、唯一の神ではないものを崇める

    • 詩編5章/本章2節から4節の構造

      音であり、言葉である。 先ず"言葉"が言及され、次いで"つぶやき"、"叫び"、"声"、そして最初の"言葉"に戻る。 つまり、中間の"叫び"に向かい一度上昇し、そこから下降し、最初の"言葉"に帰る構造の詩句になっている。 ・フランシスコ会訳と新共同訳の比較 このように、聖書のテキストのうち物語や散文に関してはともかく、詩句に関しては翻訳による差異が大きい。

      • 列王記下16章/「神を試みてはならない」

        南ユダ王国の王アハズは、異邦人のアラム人と北イスラエル王国の連合軍に攻められ、その苦境を脱するために異邦人のアッシリア王に助けを求める。 一神教徒、ヤハウェ信仰の政治的共同体の代表、南ユダ王国の王アハズは異邦人のアッシリア王にこう言う。 「わたしはあなたの『しもべ』であり、あなたの『子』です。 どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを『救い出して』ください。」 (参照:列王記下 16:7 新共同訳) 彼はいわば、神の助けを借りずに

        • 詩篇4章/My brain,God's choice

          列王記下14章/1バイト

          聖書の時代、1バイトの価値は現代とは比較にならない。 一文字を記すのは全て人力であり、記録媒体の羊皮紙等は途方もなく貴重である。 故に、記されたものには何らかの意味がある。 通常、聖書の登場人物を紹介する際に○○の子××と記述されても ○○の孫、△△の子、××と記述されはしない。 本章8節と同様に本章13節も同様の記述方式である。 偶然は二回も続かない。 以下、なぜこのような記述がなされたかを説明する。 列王記下9章には北イスラエルの将軍イエフが謀反を起こし、北イスラエ

          列王記下14章/1バイト

          列王記下13章/契約のゆえに

          契約とは何だろうか。 個々のキリスト者やさまざまな教会がどう考えていようとも、聖書自体は契約を非常に重視する。 聖書自体が旧約聖書と新約聖書に大別されることからもそれは明らかである。 一般的には不評な契約である。 「このような記述があるために、ユダヤ人国家である現代イスラエルはアラブ人のパレスチナを侵略している」 と批判されがちである。 ちなみに、ユダヤ人もアラブ人もアブラハムを先祖と自己認識しているので、両者ともにこの契約の対象者である。 旧約の契約とは要は土地の契約だ

          列王記下13章/契約のゆえに

          マタイ 4:1-11/「と書いてある」

          荒野の誘惑において、キリストは三度「と書いてある」と聖書を引用する。 "悪魔"の誘惑に対し、イエスは「わたしはこう思う」「神学的にはこうである」「論理的にはこうである」「たとえ話をしよう」とは語らず、ただ聖句を短く引用するだけである。 "悪魔"が二番目の誘惑でこの聖句を引用しても、キリストは短く「あなたたちの神、主を試してはならない(申命記 6:16 新共同訳)。」と聖句を引用し、答えるのみである。 「対立する聖句をどう捉えるか?」 「我々はどのようにそれを解釈すべきか?

          マタイ 4:1-11/「と書いてある」

          マタイ 3:13-17/「我々にふさわしいこと」

          洗礼を授ける洗礼者ヨハネとキリストでは、善に近しい、あるいは道徳的に優位なのは善そのものであるキリストである。 にも関わらず、ヨハネがキリストに洗礼を授ける。 洗礼を授ける方が権威を持ち、洗礼を受ける方が下位である訳では無い。 なぜなら、洗礼は人の権威により成されるものではなく、人という道具を通して神により成されるものだから。 また、天からの権威による洗礼で無いなら、それを授ける人間がどれだけ素晴らしい人徳者だろうと、単なる水浴びでしかない。 我々は神の道具として、その

          マタイ 3:13-17/「我々にふさわしいこと」

          マタイ 3:7-12/悔い改めにふさわしい実を結べ

          洗礼者ヨハネから受洗するためヨルダン川に数多の人が集う記述がマタイ3章にある。 律法を守るという行いによって義とされようとするファリサイ派や、祭祀儀礼や政治との結びつきにより義とされようとするサドカイ派もその中には大勢居た。 洗礼者ヨハネは彼らに言う。 「蝮の子らよ」と。 ファリサイ派もサドカイ派もアブラハムの血を引く者たちであり、つまりは神から祝福の約束を受けた血統を自負する者たちである。 行いにより己が義とされるとするファリサイ派、祭祀儀礼や政治と結びつく正しさに

          マタイ 3:7-12/悔い改めにふさわしい実を結べ

          詩編3章/わたしを苦しめる者

          前提として、詩編3章はおそらく名もなき個人が作成した詩をダビデ王に捧げたもの。 または、編集の過程でその作者がダビデに帰されたものである。 テクスト通りに読んだ場合でも、歴史背景を念頭に置いて読んだ場合でも、この詩編の"わたしを苦しめる者"は単に自分の敵である人間のことを指す。 この詩はまさに私たちの内心の惨めさについて嘆く。 神に従おうとする意志はあれど、それは歯向かう者たちに取り囲まれている。 善さに向かおうとする思いはあれど、それは藁のように弱々しいものでしかない。

          詩編3章/わたしを苦しめる者

          列王記下10章/「ヤロブアムの罪を離れなかった」

          列王記下10章において、クーデターを成功させ新たな北イスラエル王となったイエフは旧王家のアハブ家を根絶やしにする(6-8節)。 更にイエフは北イスラエル王国に蔓延していた偶像崇拝のバアル信仰を一掃する(28説)。 本章でイエフはこのように評価されている。 つまり ・反逆者であり新王である彼が旧王家に対し行った行為への評価 ・神ではないものを崇め続けた という評価の二点である。 ・参照 北イスラエル初代国王ヤロブアムの罪 自分たちが造り出したものを崇めるのが罪であり

          列王記下10章/「ヤロブアムの罪を離れなかった」

          列王記下8章/行きて、帰る。

          聖書で繰り返し語られる物語類型に追放と帰還というカテゴリーがある。 本章のエピソードもその一種である。 ①婦人は飢餓から逃れるために故郷のイスラエルを離れ ②異邦の地であるペリシテに逃れ ③帰還し、王から財産を返還される。 ①でキャラクターは故郷から追放、または旅立ち ②で余所者としてある場所に逃れ、または旅をし ③で帰還する。 ・ヨセフ ①父から可愛がられていたヨセフ は兄たちの憎しみを買い ②それが因となり奴隷としてエジプトに売られるが(以上創世記37章 ③エジプ

          列王記下8章/行きて、帰る。

          列王記下7章/よい知らせを伝える穢れた民

          大飢饉に襲われている真っ最中の北イスラエルの首都サマリア。そこを更にアラム軍が包囲し、サマリアは壊滅的な飢餓状態に陥る。 母親が自分の子供を食べるほどの飢餓状態の中、圧倒的な軍事力を持つ敵軍の包囲下で出来るのは、苦しみながら死を待つことだけである。 飢餓の中にある人は言う。 「この不幸は主によって引き起こされた。 もはや主に何を期待できるのか(列王記下 6:33 新共同訳)。」 飢えに満たされたサマリア。そのサマリアの城内に入ることすら叶わない人々が居る。 穢れた民。皮膚

          列王記下7章/よい知らせを伝える穢れた民

          詩編1章/歩み、とどまり、座る

          人は悪に向かう際に それに向かい「歩み」、向かってから「とどまり」、最終的には「座り」込んでしまう。 逆に、罪の中に座り込んでいるならば そこに「座らず」、立ち上がったならば「止まらず」、「歩み」去るべきだ。 悪や罪の状態に座り込んでしまうのは人間の弱さかもしれないが、そこから立ち上がり、神に向かいまた歩き出さなければならない。

          詩編1章/歩み、とどまり、座る

          列王記下1章/奇跡物語

          聖書にはさまざまな奇跡が描かれている。 盲人を癒す、水の上を歩く、パンを増やす、そして復活する。 奇跡物語は大抵、象徴的に解釈される。 盲人が癒された話は「心の盲目が癒されたのだ」という具合である。 近年では復活もそのように解釈される。 「キリストの復活とは、弟子たちの心の中で起きたことであり、キリストはそれほど偉大な道徳的教師だったのだ」云々という具合である。 が、復活のみは他のあらゆる奇跡と違う性質を持つ。 キリストが人間の道徳的教師、倫理学者ではなく神の子なのはま

          列王記下1章/奇跡物語

          フィリピの人々への手紙2章/よこしまな曲がった時代、不正を好む曲がった世代

          ・本章 パウロは先ずへりくだりの重要性を語り(1-5節)、神でありながらへりくだり人となられたキリストへの讃美の詩を語る(6-11節)。 そのキリストの讃美詩のあと、パウロは再びフィリピの信徒に従順の大切さを説く(12-18節)。 つまり、キリストに倣うへりくだりと従順により 「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つ(フィリピの信徒への手紙 2:15-16 新共同訳)」、パウロはこう語る。 紀

          フィリピの人々への手紙2章/よこしまな曲がった時代、不正を好む曲がった世代