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サムエル記下14章/テコアの賢女

・この記事は何を書くか

本記事はテコアの女のエピソードがサムエル記内で果たす役割である敵との一時的な和解へとアプローチし、最終的に完全な神であり、完全な人であるキリストを解釈のレンズとして使用する。

・本章がサムエル記内で果たす役割

1.一時的な和解、サウルとアブサロム

サウル王から逃走しているダビデが自分の手に渡された彼に復讐せず、裁きを神に任せる逸話がサムエル記上には二つある。サムエル記上24章及び同26章における物語の構造は類似しており次のようになる。

⓵ダビデは自分の命を狙う敵サウルを殺す機会を得る
⓶ダビデはサウルを殺す寸前で思い止まり、「主が油を注いで王とした方に危害を加えてはならない」と思い直す
⓷ダビデはあなたを殺せたが復讐しなかったのだとサウルに語る
⓸サウルは自分がダビデに敵対する誤りを認め両者は和解する

しかしながら両者の和解は長くは続かない。和解直後の同27章冒頭でダビデは「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。」(サムエル記上 27:1)とついに国外へ逃亡する。

敵との一時的な和解は本章でも繰り返される。
テコアの賢女のたとえ話を聞いたダビデは、アブサロムを逃亡先から呼び戻し一時的に和解する。が、それは長くは続かず、王を僭称したアブサロムに反逆を起こされ「直ちに逃れよう。アブサロムを避けられなくなってはいけない。」(サムエル記下 15:14)とダビデはエルサレムから荒野へと落ち延びる。

このように一時的な和解、直後の敵対、ダビデの逃亡という物語構造はサウルとダビデ、アブサロムとダビデのエピソード共に類似している。
次に本記事が焦点とする和解となぜそれが一時的に終わったのかについて考える。

2.なぜ和解は失敗したのか

まずサウルとアブサロムの両者がダビデと敵対する理由は全く異なる。サウルの場合はダビデの軍功に対する嫉妬(サムエル記上 18:7-9)、または彼が自分の王朝への潜在的脅威だからである(サムエル記上 20:30-31)。アブサロムの場合は王位への野心(サムエル記下 15:1-6)、または家庭内で親族を強姦した長男を正しく裁けない父にして王であるダビデへの不信(サムエル記下 13:20-22、同 15:3-4)である。

次に和解へ至る経緯も異なる。サウルの場合は「私はあなたを殺せたが殺さなかったのだ」と物的証拠を見せながら直接語ったからであり(サムエル記上 24:12、同26:22)、アブサロムの場合はテコアの賢女のたとえ話を聞いたダビデの心が動かされたからである(本章11節)。

けれども二つの物語の結果は類似している。和解は不十分であり、敵対関係は解消されず、ダビデは荒野へと逃げねばならなくなる。
以下はサウルとダビデ、アブサロムとダビデがどのように一時的和解の後に過ごしたかの記述である。

ダビデはサウルに誓った。サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行った。‬

‭‭サムエル記上‬ ‭24‬:‭23‬ 新共同訳

ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。‬

‭‭サムエル記上‬ ‭26‬:‭25‬ 新共同訳

ヨアブは立ってゲシュルに向かい、アブサロムをエルサレムに連れ帰った。
だが、王は言った。
「自分の家に向かわせよ。わたしの前に出てはならない。」
アブサロムは自分の家に向かい、王の前には出なかった。‬

‭‭サムエル記下‬ ‭14‬:‭23‬-‭24‬ 新共同訳

これら三つの物語で和解した両者はそれぞれ自分の場所へと戻って行く。その後にも敵対関係が解消されないことを考慮に入れると、これらの聖句は単なる移動の表現ではなく、互いの心が通じ合っていない様を文学的に表現しているのではないか。
だとするならば自分の道を行くダビデと敵たちは一時的な和解の後どのように行動したか。

3.和解後のサウルとダビデ

サムエル記上26章のエピソードでは、ダビデはサウルとの一時的和解の後、やはりまだサウルから命を狙われていると恐れ、家族を連れて敵国のペリシテ都市へと亡命しその臣下となる(サムエル記上 27:5-7)。無論、長年に渡りサウルから執拗に命を狙われ続けたダビデが国外へ亡命するのは当然理解できる。
しかしながらこれはイスラエル王であるサウル視点からすれば明らかに敵対的な振る舞いであり、両者の軋轢は緩和されていない。「ダビデがガトに逃げたと聞いたサウルは、二度とダビデを追跡しなかった。」(‭‭サムエル記上‬ ‭27‬:‭4‬)との聖句はサウルがダビデの追跡を止めたのは単に軍事的理由であり両者の和解が成されていないと暗示している。
つまり両者共に自分の立場からするならば妥当な決断をしており、従って和解など成されていない。

ではアブサロムとダビデの場合はどうか。

4.和解後のアブサロムとダビデ

三年間国外へ逃亡し、エルサレムに呼び戻した後二年間顔を合わせはしなかった自分の息子アブサロムと五年ぶりに再会したダビデは父としてではなく、王として彼に接する。
ダビデは息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、口づけするよりも、王の権威に基づき息子を自分の前に呼び寄せ、ひれ伏した息子に口づけをする(33節)。
そしてこの直後のシーンからアブサロムは私兵を揃え、王の裁きを求める者たちに対し「彼に近づいて礼をする者があれば、手を差し伸べて彼を抱き、口づけし」(‭‭サムエル記下‬ ‭15‬:‭5‬)、ダビデの裁きに不満を持つ人々の心を盗み始める。姉タマルを強姦した兄アムノンを正しく裁けなかったダビデ王に不満を持つアブサロムの立場からすればこれも妥当な判断である。

また王であるダビデにとっては長男アムノンを殺し、政治的秩序を乱した三男アブサロムは「あの若者」(21節)であり息子ではない。確かにアブサロムの死を知ってからダビデは身を震わせ、泣き、「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。
わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。
アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」(サムエル記下‬ ‭19‬:‭1‬)と嘆き父としての顔を見せる。
が、アブサロムは実の息子とはいえ謀反を起こした不忠の臣下であり、逆賊を討った王としてダビデは最終的に妥当な判断をしている。自分の息子を殺した兵士たちを王として労うのである(サムエル記下 19:9)。このダビデの立場も君主としては妥当である。

皆が皆自分の立場からすれば妥当な判断をし続けている。これがサウルとダビデ、アブサロムとダビデの和解が一時的なものに終わった理由ではないか。

・自分の居場所を越えて

神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。
キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

コリントの信徒への手紙二‬ ‭5‬:‭18‬-‭20‬ 新共同訳

ダビデもサウルもアブサロムもそれぞれが拗れ切った敵との関係性を修復しようとした。が、その努力によって和解は成されはしなかった。
人間である以上、皆が自分の立場に捉われるのである意味当たり前ではある。違う立場を乗り越えて相互に相手を赦し、和解するなど人間的な努力によっては不可能だろう。
かつての主君に命を狙われ続けた年月や、姉が強姦されたのに父はそれを正しく裁かなかったという過去は回復不可能だからである。

だからこそ、赦しと和解にはこの世において決して回復不可能なものがいつか修復されるという希望が不可欠であり、異なる立場の人々を仲介する存在を必要とするのではないか。

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。‬

‭‭テモテへの手紙一‬ ‭2‬:‭5‬ 新共同訳

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