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フィリピの人々への手紙2章/よこしまな曲がった時代、不正を好む曲がった世代

・本章

パウロは先ずへりくだりの重要性を語り(1-5節)、神でありながらへりくだり人となられたキリストへの讃美の詩を語る(6-11節)。

そのキリストの讃美詩のあと、パウロは再びフィリピの信徒に従順の大切さを説く(12-18節)。

つまり、キリストに倣うへりくだりと従順により
「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 命の言葉をしっかり保つ(フィリピの信徒への手紙 2:15-16 新共同訳)」、パウロはこう語る。

紀元一世紀の時代は、パウロからすれば命のことばから離れた、よこしまな曲がった時代である。

・モーセ

古代イスラエル指導者モーセは自らの死を前に会衆へと歌を歌う(申命記 31:30)。

そこでモーセは

主は岩、その御業は完全で その道はことごとく正しい。
真実の神で偽りなく 正しくてまっすぐな方。
不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ その傷ゆえに、もはや神の子らではない。
愚かで知恵のない民よ これが主に向かって報いることか。
彼は造り主なる父 あなたを造り、堅く立てられた方

申命記 32:4-6 新共同訳

と歌う。

モーセは歌い終わった後に、再び会衆へと律法は「あなたたちにとって決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である(申命記 32:47 新共同訳)。」
と語りかける。

モーセにとっても「命のことば」を軽んじる世代は罪の世代、つまりは不正を好む曲がった世代である。

・世代論

パウロにとっても、モーセにとってもどの時代も、世代もいわば罪にある。善に向かい時代が前進しているというよりは常にどの世代も罪の内にある。
その罪の現れが異なるだけである。

世代Aと比較し世代Bは善い、悪いという世代論がある。
この世代論で言及される善い/悪いは世代Aと世代Bを比較している。
要は人間と人間の比較の中に善い/悪いを見出す。

しかしながら善い/悪いが人間のあいだに見いだせるものでしかないなら、それは可変的なものであり絶対的なものではない。
我々はどのようなものであろうと善い/悪いと成すことができるなら、善い/悪いという言葉は何の基準でも無くなる。

では、人間や時代、世代の比較対象は何か。
神(最高善)である。

この場合、我々人間のどの世代も例外なく等しく愚かで、罪の内にある世代であり、時代である。

この時代、世代という言葉は文化などにも置き換え可能だろう。
最高善の世代や最高善の時代、最高善の文化を想像することが可能だろうか?
想像することすらそれは難しいだろう。

言の内に命があった。
命は人間を照らす光であった。

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭1‬:‭4‬ 新共同訳‬

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