契約とは何だろうか。
個々のキリスト者やさまざまな教会がどう考えていようとも、聖書自体は契約を非常に重視する。
聖書自体が旧約聖書と新約聖書に大別されることからもそれは明らかである。
一般的には不評な契約である。
「このような記述があるために、ユダヤ人国家である現代イスラエルはアラブ人のパレスチナを侵略している」
と批判されがちである。
ちなみに、ユダヤ人もアラブ人もアブラハムを先祖と自己認識しているので、両者ともにこの契約の対象者である。
旧約の契約とは要は土地の契約だろうか。
土地をどうするかという相続権の問題が神と人の契約の主問題だろうか。
一神教の祖、アブラハムと神との契約の骨子は彼の"子孫"というパン種により全人類が祝福に入るということではないか。
「『アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れ』んだのならば、神の憐れみの対象者はあくまでも契約を結んだ人間に限定されるのではないのか。
だとするならば、それは普遍的な"神"なのか」と、批判できるかもしれない。
このヨナ書に対してもこう批判できるかもしれない。
「確かに旧約の小預言書、ヨナ書の主題は『神の憐れみは異教徒にも及ぶ』だろう。
しかし、だとするならば契約概念は一体どうなったのか。
契約せずとも憐れみが及ぶならば契約なぞ不要ではないのか」と。
最も新しい契約は全人類が対象者であるキリストの契約である。
では、神と人の最も古い契約とは何だろうか。
神はこのノアとの契約で全人類と契約している。
最も古い契約は全人類と結ばれ、最も新しい契約も全人類と結ばれている。
またノアとの契約では神の憐れみの対象者は人間に限定されていない。
「地の全ての獣」が憐れみの対象である。