南ユダ王国の王アハズは、異邦人のアラム人と北イスラエル王国の連合軍に攻められ、その苦境を脱するために異邦人のアッシリア王に助けを求める。
一神教徒、ヤハウェ信仰の政治的共同体の代表、南ユダ王国の王アハズは異邦人のアッシリア王にこう言う。
「わたしはあなたの『しもべ』であり、あなたの『子』です。
どうか上って来て、わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から、わたしを『救い出して』ください。」
(参照:列王記下 16:7 新共同訳)
彼はいわば、神の助けを借りずに苦境を脱しようとしていると言えるかもしれない。
神は我々から遠く、その力が及ぶ範囲は倫理などの形而上学に限られているのだから、現実の苦境に際して、異邦人の王を『主』と呼ぶのはむしろ"神を試みていない"と言えるかもしれない。
本章、列王記下16章のエピソードはイザヤ書7章でも語られる。
そこで、主ではなく、目に見える権力に頼って苦境を脱しようとしたアハズは
「わたしは神を試みるようなことはしない」
と語る。
苦境に対し、目に見えない神に助けを求めず、目に見える政治権力に助けを求めたアハズ王は、それをイザヤに問われた際に
「わたしは神を試すようなことはしない」と語る。
しかしながら、どうにもならない、自らが無力であり、にも関わらず苦境にある時、人は神に頼るのではないだろうか。
それは「神を試みる」ことだろうか?