詩編9章/「知られざる神に」
ユダヤ-キリスト教に触れた者が誰しも一度は感ずる疑問がある。
それは「なぜ、神は唯一なのに名前があるのか?」である。
・神に"名"は不要か
仮に"名"つまりは無限の存在である神をそのまま、一切の限定をせずに呼ぶとする。
これは不可能である。
人間が無限のものを無限のまま認識することがまず不可能であり、かつそれを"名"で限定することも当然不可能である。
ユダヤ-キリスト教の神を"神"と呼ぼうと問題は何も解決していない。
この場合、無限の存在を"神"という名でカテゴライズし、限定しているだけだからである。
人間が無限の存在を呼ぶためには"名"が必要だが、名があるということは限定されているということである。この時点で矛盾である。
この場合、人間側から神を限定することはできない。それは全て誤りだろう。なぜならば、無限を人間は認識不可能だし、認識不可能なものを名で限定することもまた不可能だからである。
神の名が我々に知れるとすれば、それは無限のものがあえて、何らかの理由で、自らが自らを限定した場合だけである。
たとえば、完全に神でありながら、完全に人間となる存在というような。
・イエスの名
使徒言行録には主の名、つまりはイエスの名の話が度々語られる。
ペトロは「イエス・キリストの名によって」(使徒言行録 2:38)罪の赦しとなる洗礼を授け、「イエスの名が」(3:16)足の不自由な人を癒したのだと語り、大祭司たちに尋問された際に「イエスこそ、『あなた方、家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
この方以外の誰によっても救いは得られません。
人間に与えられた名のうちで、わたしたちを救うことのできる名は、天の下において、ほかにはないのです」。(4:11-12)と語る。
また、パウロが視力を失った際に、キリストは彼のことについて「わたしの名のために、どれほど苦しまねばならないかを、わたしは彼に示そう」。(9:16)と語る。
神に名は必要無い、神はイエスという名で、あるいは人間という属性で限定される必要など全く無い。
神が「知られざる神」のまま居たとしても、神には全く不都合は無いだろう。
神の名が必要なのは、それに呼びかける人間の側である。