列王記下17章/むなしいものを追い求めて自らもむなしくなる
本章で北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ滅亡し、イスラエル人たちは捕囚の憂き目に会う。
そしてそのような結果を招いた原因として偶像崇拝が糾弾される。
北イスラエル人たちは"目に見える"鋳造を拝むために作り、唯一の神ではなく"二頭"の子牛の像を拝み、"アシェラやバアル"という彼らをエジプトの地から導き登った主以外の神を崇め、"単なる法則や自然現象に過ぎない"天の万象にひれ伏し、"未来を知る為の"占いやまじないに親しんだからだと。
これら、唯一の神ではないものを崇める人々は自らの利益を祈願するために「息子や娘を火の中を通らせ」、偽りの神に捧げることすらした。
神が唯一でないならば、その似姿の人間の命も相対的なものだから。
第二の掟の価値はよく説かれる。
隣人を愛せ、自分自身を先ず愛せ、隣人とはあなたがなりに行くものだ、全ての人間は神の子である云々。
これは確かにそうだろう。
しかし、第一の掟とその隣人愛はどのように関わっているのだろうか。
唯一の神への信仰という要石の無い隣人愛などあり得るのだろうか。
キリストは"最も重要な掟"を問われて異なる二つの掟をサジェストしている。
この二つは同じだろうか?異なるだろうか?
それとも、この二つの掟が対話する細い糸にこそ、信仰があるのだろうか。
目に見えない神を愛することなしに、この目にありありと見えてしまう人間を愛することが、果たして人間に可能だろうか?