列王記下17章/むなしいものを追い求めて自らもむなしくなる

彼らは主の掟と、主が先祖たちと結ばれた契約と、彼らに与えられた定めを拒み、空しいものの後を追って自らも空しくなり、主が同じようにふるまってはならないと命じられたのに、その周囲の諸国の民に倣って歩んだ。
彼らは自分たちの神、主の戒めをことごとく捨て、鋳像、二頭の子牛像を造り、アシェラ像を造り、天の万象にひれ伏し、バアルに仕えた。
息子や娘に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招いた。

‭‭列王記下‬ ‭17‬:‭15‬-‭17‬ 新共同訳

本章で北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ滅亡し、イスラエル人たちは捕囚の憂き目に会う。
そしてそのような結果を招いた原因として偶像崇拝が糾弾される。

北イスラエル人たちは"目に見える"鋳造を拝むために作り、唯一の神ではなく"二頭"の子牛の像を拝み、"アシェラやバアル"という彼らをエジプトの地から導き登った主以外の神を崇め、"単なる法則や自然現象に過ぎない"天の万象にひれ伏し、"未来を知る為の"占いやまじないに親しんだからだと。

これら、唯一の神ではないものを崇める人々は自らの利益を祈願するために「息子や娘を火の中を通らせ」、偽りの神に捧げることすらした。

神が唯一でないならば、その似姿の人間の命も相対的なものだから。

サドカイ派の人々がイエスに言い込められたのを知って、ファリサイ派の人々は集まった。そのうちの一人で、律法の専門家が、イエスを試みようとして尋ねた、「先生、律法の中でどの掟が一番重要ですか」。
イエスは答えて仰せになった、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。
これがいちばん重要な、第一の掟である。
第二もこれに似ている。
『隣人をあなた自身のように愛しなさい』。すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」。

マタイ 22:34-40 フランシスコ会訳

第二の掟の価値はよく説かれる。
隣人を愛せ、自分自身を先ず愛せ、隣人とはあなたがなりに行くものだ、全ての人間は神の子である云々。
これは確かにそうだろう。

しかし、第一の掟とその隣人愛はどのように関わっているのだろうか。
唯一の神への信仰という要石の無い隣人愛などあり得るのだろうか。

キリストは"最も重要な掟"を問われて異なる二つの掟をサジェストしている。
この二つは同じだろうか?異なるだろうか?
それとも、この二つの掟が対話する細い糸にこそ、信仰があるのだろうか。

目に見えない神を愛することなしに、この目にありありと見えてしまう人間を愛することが、果たして人間に可能だろうか?

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。
目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。
神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。‬

‭‭ヨハネの手紙一‬ ‭4‬:‭19‬-‭21‬ 新共同訳

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