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サムエル記下 11章/ウリヤの妻によって

・本章を一言で表すと

外征中の将軍の妻と床を共にしたダビデ王。王はこの罪を揉み消すために彼女の夫を亡き者にする。

・あらすじ

冬の休戦期間が終わりアンモン人との戦争が再開される。イスラエル軍がアンモンの首都ラバを包囲している最中、ダビデ王はエルサレムに残っている。

自分の部下たちが戦場にある時、午睡から目覚め散歩していた王は穢れを清めるため(レビ記 15:19)に沐浴をしている美女を見かける。その女性についてダビデが部下に調べさせてみると、彼女の名はバトシェバ。外征中の将軍、ヘト人ウリヤの妻であった。

バトシェバと床を共にしたダビデ王に使いの者が送られてくる。彼女は妊娠してしまったのだ。
律法(申命記 22:22-26)に照らした場合、間違いなく死刑に当たる重罪である。

これは大変なことになったと戦場に伝令を送り、バトシェバの夫ヘト人ウリヤを呼び戻すダビデ王。戦況はどうだ?…そうかそうか。兵士たちは無事か?……そうかそうか。などとエルサレムへ戻ったウリヤにひとしきり尋ねた後、さらりと本題である労いの言葉を彼に掛ける。
「さあさあ、家に帰って戦の疲れをゆるりと湯に流し、久方ぶりに奥方と寝所を共にしてはいかがか。」これにて本件は一件落着…

と、思ったダビデに「ウリヤは家に帰らず、王宮の門前にて仮庵を立て、そこに居られます。」との知らせが届く。
これはいかなることかと問うダビデ王にヘト人ウリヤ答えて曰く。
「我があるじ、イスラエル軍を統べる総大将ヨアブ殿も部下たちも未だいくさばの仮庵に在り。また、かしこくも天地万物を統べる大御神は未だ天幕という仮庵に有らせられる。
かかる時に吾一人、瓦の下にて湯浴みをし、愚妻と同衾するなど以ての外。」

これを聞きたるダビデ王。「天晴れウリヤ。このような忠臣を召し抱えし寡人はオリエント一の果報者じゃ。本日はここに止まられよ。明日、お主を送り届けようぞ。」と告げるのであった。

これは困ったダビデ王。あのような硬骨漢は酒でふやかせるに限るわいと、頑固者を宴席に招き美酒、奇酒、名酒の大盤振る舞い。殿御自らが注ぎし盃を、空けぬわけにもいきますまい。一献、二献、三献と、ぐいぐいぐぐっと空けるうち、さすがのウリヤも千鳥足。これはたまらんと宴席から立ち去るのであった。

やれやれ、これでようやっと型が付いたわい。正体を無くすほど酔うた男がすることなど決まっとろうが。とほっと胸を撫で下ろすダビデ王。
が、あにはからんや。なんとウリヤはまたもや家に帰らず、王宮の門前の仮庵にて大の字になっているではないか。

これでダビデ王の決心は固まる。

ダビデはアンモン攻め総司令官にしてヘト人ウリヤの主君、ヨアブへと書状をしたためる。
その内容はこうである。
「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と。

自らの死をもたらす書状を懐に抱き、平和の都エルサレムから戦場へと帰るウリヤ。アンモンの地から遠く離れた時にも愚直に忠義を尽くした彼に対し、主君ヨアブはダビデからの命令を実行する。最前線での激しい戦いの最中、ウリヤは戦死する。包囲を打ち破ろうと城から打って出てきたアンモン軍を城門の入り口まで押し戻したところを矢で射られたのだ。

城攻めの軍から送られてきた使者によりバトシェバの夫、ウリヤの死を知ったダビデはこう言う。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない。剣があればだれかが餌食になる。奮戦して町を滅ぼせ。』そう言って彼を励ませ。」

バトシェバは夫の死を嘆き喪に服す。そして憂いを取り除いたダビデは喪が明けたバトシェバを王宮に迎え、妻とする。そして彼女は男の子を産むのであった。

・心に残った聖句

ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。‬

サムエル記下‬ ‭11‬:‭27‬ 新共同訳

本章は聖書が教える倫理観云々以前の問題について書かれているが、その末尾の聖句である。

・本章から導かれる道徳的意味

臣下たちが命懸けで戦っている最中、肝心のダビデ王は惰眠を貪りながら部下の妻を寝取っている。しかも自分が妊娠させてしまったのが明るみに出ぬよう夫であるヘト人ウリヤを奸計にかけようとする。更にそれが上手くいかないとなると合法的に彼を殺してしまう。

本章で書かれたダビデはこれ以上ないほどの道徳的教訓を反面教師として我々に与える。

そして本章における権力を悪用するダビデはあらゆる"わたしたち"そのものでもある。

・サムエル記全体における本章の位置付け

1.サウルの韻を踏むダビデ

ダビデはバトシェバの夫、ヘト人ウリヤをアンモン人の手により殺そうとする。これはかつて自分自身がサウルから受けた仕打ちと相似である。

かつてサウル王は娘との婚姻を餌にして、敵であるペリシテ人の手でダビデを殺そうとしたが(サムエル記上 18:17-25)、本章に限らず王冠を戴いて以降のダビデにはサウルと似た振る舞いが増える。

サウルはかなり神がかり的な人物であり、時には激しく霊が降ったために着物を脱ぎ捨て裸になるほどであった(サムエル記上 19:22-24)、丁度、エルサレムへと契約の箱を運び上げる際にダビデ王が神の前で裸になるほど激しく踊ったように(サムエル記下 6:14-16)。

また、サウルは四方の敵全てに勝利を収め、向かうところ敵なしであった(サムエル記上 14:47-48)。
が、ここが頂点である。この頂点はサウル家の子供たちや高官たちの名の列挙で締めくくられる(サムエル記上 14:49-52)。サウルはこの後、戦争において神のものである戦利品を自分のものとしたという罪を預言者サムエルに糾弾された後(サムエル記上 15:19-26)、「王国はあなたから取り上げられる」と告げられる。

ダビデはどうか。ダビデも四方の敵を打ち勝利を収め、頂点に至る(サムエル記下 8:11-12)。そしてこの頂点は彼の子供たちと高官たちがどのような職責にあったのかという列挙で締めくくられる(サムエル記下 8:15-18)。
この後、本章において罪を犯し、次章において預言者ナタンに糾弾され、罪の結果として息子が死ぬことになる。

サウルとダビデは相似の関係ではないか。仮に相似だとするならば、主と彼ら二人の関係性の違いとは何に起因するのだろうか。

2.ウリヤの妻によってダビデは罪に陥ったのか

『バトシェバ』 ジャン=レオン・ジェローム

本章でウリヤの妻バトシェバは水浴びしているところをダビデに目撃され、それによりダビデは姦淫の罪を犯す。キリストの予型としてダビデをある意味で神格化するならば、この罪を軽減する弁護方針がある。
それは「ダビデは確かに罪を犯したが、それは水浴びしているバトシェバに誘惑されたからである」という理屈である。

この理屈は妥当だろうか。

3.ダビデとバトシェバの権力関係

『ダビデからの手紙を受け取るバトシェバ』 ヤン・ステーン

バトシェバは"夕暮れ"に、"汚れから身を清め"るために沐浴をしていた。その場面を"午睡から起きて、王宮の屋上を散歩"しているダビデに目撃される。
このような状況は王に自身の裸身を見せるためにバトシェバが意図したものとは考えにくい。

また、ダビデは使いの者をやってバトシェバを召し入れるが、彼女にそれを断る選択肢があったかどうか。後にバトシェバは介護が必要なほど老齢となったダビデ王の前でもひざまずき、地に顔を伏せて拝礼している(列王記上 1:15-31)。王の息子であるソロモンを産んだ後でもこのような関係性ならば、本章においてダビデの誘いを断ることはかなりの制裁、場合によっては死を覚悟せねばならないように思える。

そしてダビデは自らの権力を理解した上で彼女と寝たと判断するのが妥当なように思える。何よりダビデとバトシェバのしたことは、ではなく、ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。のだから。

ダビデ王は権力を悪用し、部下であるヘト人ウリヤを死に追いやり、部下の妻であるバトシェバと寝たと考えるのが妥当ではないか。

・アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図

エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ‬‬

‭‭マタイによる福音書‬ ‭1‬:‭6

新約聖書はイエス・キリストの系図から始まる。そこには父系の血統が記されているが、数人の女性についても言及されており、その一人が本章に登場するバトシェバである。

明らかに「主の御心に適わなかった」ダビデの行為により彼女は夫を亡くし、しかも夫を殺した権力者の妻とならねばならなかった。後にそれを受け入れざるを得なかったとしてもその心中は甚だ穏やかではなかっただろう。

私自身の両親の馴れ初めも現代基準で言えば不同意、あるいは強制性交の結果の妊娠なので複雑極まりない関係性は身近な話題でもある。

「結果としてキリストの法的系図の一部に連なる栄誉を得たのだから良かったのではないか」と言えるようなものではないが、馴れ初めが罪と呼ばれるようなものであろうと、その関係によって生を得た者はそこを生きて行かざるを得ないのも事実である。キリストの系図はそういった思いを私に抱かせる。

・悪からでも善を

創世記にヤコブの子ヨセフの物語がある。彼は父ヤコブの年を重ねてからの子であったため兄弟に憎まれ、そして殺されかけ、やがて奴隷としてエジプト人へと売られてしまう。

苦難の中、放浪先のエジプトで宰相にまで成り上がった大飢饉の中、彼は食料を求めてエジプトを訪れた自分を殺そうとした兄弟たちと再会する。

兄弟たちに自分はかつてあなた方が殺そうとしたヨセフだと明かし、彼はこう語る。

ヨセフは兄たちに言った。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」
ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。‬

‭‭創世記‬ ‭50‬:‭19‬-‭21‬ 新共同訳

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