列王記下22章/見失われていたものを再び見出す
南ユダ王国時代、律法は失われていた。
律法の失われぐらいは甚だしく、キリスト教でたとえるならばクリスマスや復活祭に相当する過越祭すら祝われないくらいであった。
つまり、律法は完全に見失われていた。
その律法が本章、つまりは列王記下22章で再び見出される。
見失われていたものが再び見出される。
見失われていた律法が再び見出された時、それは南ユダ王国が滅亡寸前の時である。
南ユダ王国の王ヨシヤは、見失われていたが再び見出された律法に基づき、バビロニアに滅ぼされる寸前の自国、民、そして自分自身について解釈する。
視点が神の場合。
見失われていたものが再び見出される話はキリスト者にとり馴染みが深い。
ルカ書15書の見失われていたものが再び見出される三つの話、失われた羊、見失われていた銀貨、放蕩息子の帰還の話はキリスト者でなくとも誰でも知っているだろう。
「見失われていたものが再び見出される」と言った場合、現代、キリスト者が語る場合、基本的にはこの理解である。
つまり、見失われていたわたしが、神に再び見出されるというような。
しかしながら、見失われていたものを再び見出す主体は神だけなのだろうか。
「この見つかった(価値観の体系)について、わたしのため、民のため、(共同体)のために、(絶対者)の御旨を尋ねに行け。
我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった(絶対者)の怒りは激しいからだ。」
基本的に見失われていたものを再び見出し、解釈するというものはこのようなものである。
ルネサンス(再発見)は、見失われていた古代ローマ-ギリシア文明を再び見出し、それに基づきイマココを解釈し
明治維新は見失われていた天皇の物語を再び見出し、それに基づきイマココを解釈した。
イスラム原理主義やキリスト教原理主義は見失われていた信仰を再び見出し、それに基づきイマココを解釈した。
なぜ「見失われていたものが再び見出される」ことが重要なのだろうか。
つまりは、なぜ、見えなくなっていたものが再び見えるようになることが重要なのだろうか。
・見えないものと見えるもの
ヨハネ書9章はキリストが生まれつきの盲人を癒した話が語られる。
彼は見えないものであったが見えるようになる。
それに対して"自分たちは見えていると思っている"ファリサイ派の人々は生まれつき目が見えなかった人を「お前は我々に教えようというのか」と非難する。
「我々は神の言葉を見失ってなどいない、我々の目はしっかりと開かれており、はっきりと見えている。
つまり、我々は神を知っているのだ」
このように自認するまさにその時、我々は完全な盲目の中に居るのではないか。
神は、あるいは善は永遠に"再発見"される必要があるのではないか。