コロサイの人々への手紙1章/キリスト者の希望

わたしたちはいつもあなた方のために祈るとき、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に、感謝しています。
それは、キリスト・イエスに結ばれてあなた方がもっている信仰と、聖なる人々に対するあなた方の愛のことを聞き、あなた方のために天に蓄えられている希望のことを思い合わせているからです。
あなた方のもとに届いた真理の言葉、すなわち福音の中で、あなた方はこの希望のことをすでに聞いて知っています。
福音は世界じゅうで実を結び大きく成長しています。

コロサイ 1:3-5 フランシスコ会訳

コロサイ書はキリスト者の希望について語る。
では、希望とは何なのだろうか。

被造物だけでなく、初穂として霊をいただいているわたしたち自身も、神の子の身分、つまり、体の贖われることを待ち焦がれて、心の中で呻いています。
わたしたちは救われているのですが、まだ、希望している状態にあるのです。
目に見える望みは望みではありません。
目に見えるものを誰が望むでしょうか。
わたしたちは目に見えないものを望んでいるので辛抱強く待っているのです。

ロマ 8:23-25 フランシスコ会訳

「わたしたちはキリストを主と信じることにより、聖霊を受けることにより"完全に"救われる。」つまり、救いを確信し、目に見えるものとして手に入れるのだ。という信仰理解がある。
それは妥当だろうか。

わたしたちは気を落としません。
かえって、たとえわたしたちの「外なる人間」が滅び去るにしても、わたしたちの「内なる人間」は日に日に新しくされています。
わたしたちの一時的な軽い苦しみは、想像を絶する、永遠の重みある栄光をわたしたちにもたらすのです。
わたしたちは、「見えるもの」にではなく、「見えないもの」にこそ目を注いでいます。
「見えるもの」はこの代限りのものですが、「見えないもの」は永遠に続くものだからです。

第二コリント 4:16-18 フランシスコ会訳

わたしたちの救いが既に成されているならば、もはやそれは既知のもの、体験し、この目でみたものでしかない。
だとするなら、そのようなものを未だ我々は希望のうちに待ち望むだろうか。

これらの人々はみな、信仰を抱いて死にました。
彼らは約束されたものを受けませんでしたが、遥かにそれを望み見て歓呼の声をあげ、自分たちが、この世では異邦人であり、旅人にすぎないことを表明しました。
このように語る人々は、自分たちの故郷を求めていることを表明しているのです。
もし、彼らが出てきた土地を思っていたのなら、帰る機会もあったでしょう。
しかし、実際、彼らがあこがれていたのは、もっと善い所、すなわち、天の故郷だったのです。
それで、神は、彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。
神は、彼らのために都を準備されていたからです。

ヘブライ 11:13-16 フランシスコ会訳

キリスト教を目に見えるものだけで理解しようとする信仰理解がある。
神学論理にしても、救いにしても、倫理にしても、既に確かなものとして理解しようとする試みがある。
しかし、目に見えない天の国という故郷を希望しない信仰は果たして信仰だろうか。

「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。
そうでなければ、あなた方のために、場所を準備しに行くと言ったであろうか。
わたしが行って、あなた方のために場所を準備したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎えよう。
わたしのいる所に、あなた方もいるようになるためである。」

ヨハネ 14:2-3 フランシスコ会訳

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