コロサイ書はキリスト者の希望について語る。
では、希望とは何なのだろうか。
「わたしたちはキリストを主と信じることにより、聖霊を受けることにより"完全に"救われる。」つまり、救いを確信し、目に見えるものとして手に入れるのだ。という信仰理解がある。
それは妥当だろうか。
わたしたちの救いが既に成されているならば、もはやそれは既知のもの、体験し、この目でみたものでしかない。
だとするなら、そのようなものを未だ我々は希望のうちに待ち望むだろうか。
キリスト教を目に見えるものだけで理解しようとする信仰理解がある。
神学論理にしても、救いにしても、倫理にしても、既に確かなものとして理解しようとする試みがある。
しかし、目に見えない天の国という故郷を希望しない信仰は果たして信仰だろうか。