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列王記下1章/奇跡物語
エリヤは五十人隊の長に答えて、「わたしが神の人であれば、天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう」と言った。
すると、天から火が降って来て、隊長と五十人の部下を焼き尽くした。
ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。
このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。
よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」
そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
聖書にはさまざまな奇跡が描かれている。
盲人を癒す、水の上を歩く、パンを増やす、そして復活する。
奇跡物語は大抵、象徴的に解釈される。
盲人が癒された話は「心の盲目が癒されたのだ」という具合である。
近年では復活もそのように解釈される。
「キリストの復活とは、弟子たちの心の中で起きたことであり、キリストはそれほど偉大な道徳的教師だったのだ」云々という具合である。
が、復活のみは他のあらゆる奇跡と違う性質を持つ。
キリストが人間の道徳的教師、倫理学者ではなく神の子なのはまさに復活したからであり、この部分を信じない信仰は無意味ではないか。