マタイ 3:13-17/「我々にふさわしいこと」

ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

しかし、イエスはお答えになった。
「今は、止めないでほしい。
正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

マタイによる福音書 3:14-15 新共同訳

洗礼を授ける洗礼者ヨハネとキリストでは、善に近しい、あるいは道徳的に優位なのは善そのものであるキリストである。
にも関わらず、ヨハネがキリストに洗礼を授ける。

洗礼を授ける方が権威を持ち、洗礼を受ける方が下位である訳では無い。
なぜなら、洗礼は人の権威により成されるものではなく、人という道具を通して神により成されるものだから。

ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、 言った。
「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。
その権威を与えたのはだれか。」
イエスはお答えになった。

「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」

ルカによる福音書 20:1-4 新共同訳

また、天からの権威による洗礼で無いなら、それを授ける人間がどれだけ素晴らしい人徳者だろうと、単なる水浴びでしかない。

我々は神の道具として、その本質を十分に果たすとき、我々にふさわしい善さが現れるのではないか。

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