アッシリア帝国により滅ぼされる寸前のところで救い出された南ユダ王国は、しかしながら、ヒゼキヤの子、マナセ王に「惑わされて、主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりも更に悪い事を行った。」(本章9節)
彼らは天の万象という自然現象を崇め、偶像を崇拝し、自分自身の利益のためと信じ我が子を生贄にし、未来を知るためや不幸を避けるために占いや霊媒に頼った(本章5-6節参照)
南ユダの歴史はバビロン捕囚に向けて進んでいく。
・弟子の覚悟、見失われたものたちが再び見出されること
イスラエルの民、つまりは神のものである聖なる民は幾度も神に背き、かつ見出される。
バビロン捕囚後、イスラエルの民が帰還したように。
ルカによる福音書14章にはキリスト、つまりは神の弟子たちに求められる覚悟が記されている。
客と招待される者への教訓、「大宴会」のたとえ、弟子の条件のエピソードが述べられた14章は、次に赦しを語る15章、見失われたものが再び見出される三つのたとえ、つまりは「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえの話へと繋がる。
では、弟子の覚悟で要求される厳しい戒めと赦しの三つのたとえ話は何によって接続されているか。
イスラエルの民という聖なる民がその聖性という塩気を失えば外に投げ出されたように、キリスト者という新しい神の民も、その聖性を失えば外に投げ出されるだろう。
無論、この裁きは赦しと、弟子の覚悟と放蕩息子の帰還は銀貨の裏表でもある。