サムエル記下 15章/わたしの心にかなう者
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サムエル記下15章を中心に同書で描かれた人物たちが勝利や成功に恵まれている場合と権威や安全を失った時を比較し、最終的に神であり人であるキリストを基にダビデの生涯を解釈する。
1.「わたしの心にかなう者」
新約、旧約共にダビデは「神の御心にかなう者」(使徒 13:22、サムエル記上 13:14)と評されている。この意味をクリスチャンに問うならば大抵の場合は次のような答えが返ってくる。
「ダビデは信仰の力によって巨人を倒し、強大な王国を実質的に建国し、キリストの予型である王なる祭司となりました。確かに彼はバトシェバの一件で罪を犯しましたが、イエス様以外に罪を犯さない人間など居ません。悔い改めにより立ち返ったダビデはわたしたちに信仰の模範を示しています」
この答えは魅力的である。わたしたちは弱いが神に強められて敵を滅ぼし、成功し、繁栄するという風に自分自身へ容易に適用可能でもある。
しかしこの姿は歴代誌で描かれた英雄的ダビデ像には大体当てはまるが、サムエル記で書かれている彼の姿と乖離してはいないか。
また、「わたしの心にかなう者」とは巨大な敵を倒し、偶像崇拝者の四夷を征服し、王国の支配を確立するとの意味合いだろうか。
2.征服者ダビデ
ダビデは異なる資料に基づいたサムエル記上 16:14-23の後、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒す英雄として登場し、先住民エブス人の街エルサレムを攻め落とす際に身体障害者を虐殺し(サムエル記下 5:7-10)、モアブ人の捕虜を虐殺した(サムエル記下 8:2)。
また、反乱を鎮圧し王権を確かなものとしたダビデの最後のことばはソロモンへの王位継承を確かなものとするための暗殺指令である(列王記上 2:5-9)。
これらの行動は古代の征服者としては正しいものではある。
が、征服者のダビデはキリストに似ているだろうか?征服者のダビデが「わたしの心にかなう者」なのだろうか。
では浮き沈みが激しいダビデの生涯のうち、彼が喪失している時はどうだろうか。
3.本章のダビデの状況
ダビデは謀叛人である我が子から逃げるため荒野へと落ち延びる。言うまでもなく王冠は危うく、ブレーンにも裏切られ、家庭環境もぐちゃぐちゃである。
長男は家庭内で異母妹を強姦したせいで暗殺され、兄弟殺しの罪を犯した謀反人の我が子によって命と王冠を狙われている。
そして何よりも以前はあれほど語りかけてくれた神からのことばは絶えて久しい。ダビデ物語の転換点であるバトシェバの一件は「主の御心に適わなかった。」(サムエル記下 11:27)
これは単なる一文ではない。ダビデからソロモンへの王位継承を描いたサムエル記下12-20、列王記上1-2章の間、ダビデが神に語りはしても、神が直接登場するのはたった二箇所である(サムエル記下 12:24、17:14)。
家庭は崩壊し、王冠どころか命も失いそうな彼は、神の沈黙の中、それでも危機に立ち向かわねばならない。
4.喪失者ダビデ
ダビデは嘆く。嘆く以外にできることがほぼ無いとも言える。
彼にも助けはある。祭司たちはダビデの側に立ち、謀叛人と戦う際に喉から手が出そうなほど欲しい正当性を与える道具、契約の櫃を持って来てくれる。ありがたい。これを使えば主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。誰でもそう考える。
が、ほぼ全てを失っているダビデはそうは考えなかった。
ここでサムエル記上4-6章、サムエル記下6章で書かれてきた契約の櫃の物語とダビデの物語が統合される。彼は神を道具とするのではなく、神の道具となる道を選ぶ。
5.オリーブ山で祈る
キリストがキドロンの谷を通りオリーブ山のゲッセマネで祈ったように、ダビデも受難の際にその道を通る。
ゲッセマネで自分が行く道を知っておられたイエスはこう祈る。
6.わたしの心にかなう者
ダビデが神の心にかなう者というのは、彼が勝利し、征服したからだろうか。
むしろダビデがキリストに似ているのは、彼が喪失している時では無いだろうか。