サムエル記下 10章/上昇するダビデ、下降するダビデ
・本章を一言で表すと
同盟者が逝去したため弔問の使者を送るダビデ王。が、弔問先で使者たちが侮辱を受けたため戦争が始まる。ダビデ軍は将軍、次に王自らが率いた戦いで次々と勝利を重ねる。
・あらすじ
ダビデはサウル王を共通の敵(サムエル記上 11:1-4)とするアンモン人の王ナハシュと同盟関係にあった。その彼が亡くなったため哀悼の意を示そうとダビデ王は使者を送る。
が、新しいアンモンの王、ナハシュの子ハヌンは家臣からの「ダビデの使者は弔問のためではなく我々の内情を偵察しに来たのではないか」との讒言を聞き入れ、使者たちに侮辱を与え追い返す。
当然ながら戦争が始まり、アンモン側はアラム人たちの諸王国のうち四勢力から協力を得る。
ダビデ軍は将軍ヨアブに率いられ、アンモン-アラム諸王国連合軍と相対する。
決戦の地はメデバ(歴代誌上 19:6-7)、かつてモーセが自らは入れぬ約束の地を眺めたネボ山の近郊であり(申命記 32:48-52)、死海の東にある街である。
ダビデ軍を率いる将軍ヨアブは、自軍がアンモン-アラム諸王国連合軍に挟み撃ちにされていると気づく。
精鋭を選りすぐり、残りの兵を血肉を分けた実の兄弟へ託し、アラム軍へと迫るヨアブ。
鬼気迫る突撃に恐れを成したか、はたまた神の恩寵か。ヨアブ隊と干戈を交える前にアラム諸王国連合軍は退き、同盟者たちが離脱したのを知ったアンモン軍もこれはたまらんとメデバの街へ取って返し、その城門にかんぬきを掛けるのであった。
しかしながら時は古代、舞台は中東。これで合戦が手仕舞いになるはず御座いましょうか。
仇敵ダビデ、憎っくきイスラエルの奴ばらに、逃げの一手では我らがアラムの面目丸潰れ。普段の諍いはメデバにちなんで"水"に流し(サムエル記下 12:26-27)、ここにアラム諸王国がついに統一戦線を組むのであった。
一筋縄ではいかぬアラムの群雄を纏めるはハダドエゼル。ダビデ王の武勇に二度三度と煮え湯を飲まされた恨み(サムエル記下 8:1-8)、遂に骨髄に達したか否か。
アラムの奸雄、ツォバの王ハダドエゼル軍の司令官まで出張って来たとなっては将軍ヨアブでは力不足。遂にイスラエル全軍を率いてダビデ王自らの御出陣。ヨルダン川を越える労苦もなんのその。数は多けれど所詮は急拵えのアラム諸王国連合軍を散々打ち破り、一杯地に塗れたアラム諸王国はハダドエゼルの隷下にいるよりダビデ王に服属する道を選び、アラム人たちは二度とアンモン人を支援せぬのであった。
・心に残った聖句
本章における一度目の戦い、メデバの戦いにおけるイスラエル軍司令官、将軍ヨアブの言葉である。
この戦いにおいてイスラエル軍はアンモン-アラム軍に挟み撃ちにされており、イスラエル軍は当然窮地に陥っていただろう。
・本章のみから導かれる道徳的意味
窮地に陥ったヨアブは神に祈る。が、その内容は「勝利をもたらしてください」「武勇をわたしに立てさせてください」といった内容ではない。
「主が良いと思われることを行ってくださるように。」である。
本章は古代イスラエルでの戦争という「いまここ」のわたしたちには関係性が薄い内容だが、窮地の際に自分自身の成功や危機からの救いではなく、神の御旨が成されるよう祈る信仰はわたしたちにも教えるところがあるのではないか。
・サムエル記における本章
1.上昇するダビデ
かつて単なる羊飼いだったダビデはサウル王に召し抱えられるが、後に当のサウル王から命を狙われ流浪の旅に赴く。
彼にとってどん底と言えるのはサムエル記上30章において、逃亡先のペリシテのガト王アキシュから下賜された街、ツィクラグが略奪に合い、自分の部下たちからも見捨てられ、殺されかけた時だろう(サムエル記上 30:6)。
せっかく得たイスラエル軍司令官という地位、王の娘という妻を出奔により既に失っていたダビデは、これにより家族、地位、仲間、そして第二の故郷も失い、それどころか仲間たちから殺される寸前である。
が、ダビデは「その神、主によって力を奮い起こし」、主に託宣を求め略奪隊を討つ。
ここからダビデの再度の上昇が始まる。
その上昇をざっと書くと
略奪隊に奪われた家族たちと兵の信頼を取り戻し、サウルの死後ユダ族の王となり(サムエル記下2:4)、王の娘である妻を取り返し(サムエル記下 3:14-16)、ユダ族だけではなく全イスラエルの王となり(サムエル記下 5:3)、エルサレムを攻め落とし、ペリシテ人たちを破り、契約の箱をエルサレムに運び上げ、更にアラム、モアブ、アンモン等といった四方の敵を撃ち、武勇だけではなくサウル家の生き残りのメフィボシェトに憐れみをかけるという徳の高さも見せ、最後に本章においてアラム諸王国の連合軍を破る。
ダビデ王は途方もなく昇り詰めた。
そして、聖書において昇り詰めた人間は必ず低められねばならない。
次章の"ウリヤの妻"のエピソードからダビデ王の下降が始まる。
2.祈るダビデ、祈らないダビデ
ダビデはどん底の時に「その神、主によって力を奮い起こし」た。そして主に託宣を求めた。
また、ペリシテ人と戦った際も主に託宣を求めた(サムエル記下 5:19)。
しかしながらダビデ王は四方の敵を服属させた戦いでは主に託宣を求めず(サムエル記下8章)、また本章の戦いにおいてもそれを求めはしなかった。
かつて単なる羊飼いであった時の彼ならば、今の自分を見た際にこう言うかもしれない。
彼がまた祈り出すのは、実の息子に謀反を起こされ、エルサレムからキドロンの谷を通り、オリーブ山を越え、荒野へと都落ちをする時である。
・オリーブ山で祈る
キリストは受難に向かわれる際に「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」(ヨハネによる福音書 18:1 新共同訳)。
エルサレムから"都落ち"するキリストはキドロンの谷を通り、オリーブ山にあるゲッセマネで「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」との祈りを捧げたのだ。
自分が愛である神に見捨てられたとしても、主の御心のままそれを受け入れる。
言うは易く、行うは難しだが、やはりこの境地が信仰の完成系ではないか。