列王記下20章/なぜわたしたちは将来の世代へ配慮せねばならないのか
・本章の要約
南ユダ王国の王ヒゼキヤは神によって病を癒やされるが、預言者イザヤにより後の世代がバビロンに捕囚されるとの預言を知らされる。
・ヒゼキヤ王は悪人か
上記のようにヒゼキヤ王はバビロン捕囚という将来世代に待ち受ける悲劇について聞かされた際に、自分の在世中は平和と安定が続くのならば、これは「ありがたい」預言だと捉えた。
このエピソードを読むならば、大抵の人間はヒゼキヤ王の態度に悪を見出すだろう。
が、なぜそれが悪なのか。
・ヒゼキヤ王という個人の情動に焦点を合わせた場合
バビロン捕囚はヒゼキヤ王が死んでから100年後の出来事であり、彼からすれば遠い将来世代の出来事である。
で、あったとしても善い人とはそのような出来事を知らされたならば、「ありがたい」と思うのではなく、悲嘆に暮れるような人格が備わるものではないか。
つまり、遠い将来世代に待つ悲劇に対して共感する情動を持つ人間こそが善い人である。
しかしながら、この論理にはこう反論可能かもしれない。
「確かに100年後の将来世代に待つ悲劇を知らされ、悲嘆に暮れるような人物は、そうでない人物よりも善い人かもしれない。
が、悲劇が訪れるのが100年後ではなく1000兆年後ならばどうか。
時間の流れという量が問題となるのならば、善さという質の問題の話ではないのではないか」
つまり、ヒゼキヤの情動は彼の悪をある程度は説明しても、その全てを説明しない。
・信仰を継承するものとして
主はヒゼキヤの先祖、つまりは過去世代のダビデの神である。
彼はダビデの契約により恩恵を受けており、ゆえに過去からの遺産を自分が継承したように、自らも将来世代へと信仰の遺産を継承する義務を持つ。
しかしながら、イザヤが彼に告げた将来世代を待ち受けるバビロン捕囚という悲劇は、信仰の遺産継承という彼が持つ義務を難しくするだろう。
にも関わらず、彼がイザヤの預言を聞き「ありがたい」と思うことは看過できない罪ではないか。
しかしながら、この論理にも反論可能かもしれない。
「確かにヒゼキヤはアブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ等により伝えられてきた宗教という文化により恩恵を受けた。
故に彼自身は次の世代に信仰を伝える義務を持つかもしれない。
が、1000兆世代後の人々に対してはどうか。
イザヤの預言は100年後、つまりは三世代後の人々について語られており、彼の直接の子供はバビロン捕囚の悲劇を体験する訳ではない。
そのような遠い将来世代に対して、ヒゼキヤが何らかの義務を負うだろうか」
・同じ共同体に所属する一員として
ヒゼキヤが配慮すべきであったのは遠い将来世代ではなく、まさに自分自身が所属している、空間と時間を越えた共同体ではないか。
バビロン捕囚という将来世代を待ち受ける悲劇を聞かされ「ありがたい」と思う人物がなぜ悪なのか。
それはそもそも将来世代という時間軸の量の問題ではなく、同質の共同体、自分自身が所属する神に属する民を待ち受ける悲劇に対して相応しくない態度だからではないか。
生きているか、既に亡くなったか、まだ生まれてはいないかというものが問題なのではなく、神の民なのかそうではないのかという質の問題が重要なのではないか。
しかしながら、それでもこう問えるかもしれない。
「仮に神の民は同質の共同体だとしても、現在既に生きている人々と将来の人々、特にまだ生まれてもいない人々はやはり特殊な関係性ではないか。
なぜならば、現在の人々の行動はまだ生まれていない将来の人々に影響を与えるが、まだ生まれていない人々の行動は現在既に生きている人々に影響を与えないからだ。
過去から未来への一方向的な関係性しかないものが共同体と言えるだろうか」
・未来から伝わる過去との対話
祈りとは現在生きているわたしたち同士の対話であり、また、未来から伝わる過去との対話であり、過去から未来へ繋がる対話でもあるのではないか。
死者は生者と共に共同体を構築しているのではないか。
いずれ死ぬ我々が、まだ生まれてもいない未来の人々と共同体を構築しているように。