詩編10章/陶工と器

詩編10章は苦しむ者の視点から唄われた詩である。
神を信じない者が栄え、哀れな者が虐げられ、苦しむ様が語られている。
では、その苦しみや悩みは誰が与えたのか。

立ち上がってください、主よ。
神よ、手を下してください。
哀れな者を忘れないでください。
いつまで、悪い者にあなたをさげすませ、
「神は仕返しすることはない」と
心の中で言わせるのですか。
あなたご自身で苦しみを顧み、
悩みをご覧ください。
それはあなたの手が与えたものなのです。
不幸せな者、みなしごは、あなたに身を委ねます。
彼らの助け手となってください。

詩編 10:12-14 フランシスコ会訳

詩編作者は語る。
まさに、この苦しみは神が、わたしを造ったものがこのわたしに与えたのだ。と。

さて、イエスは通りがかりに、生まれつき目が見えない人をご覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。
この人ですか。それともこの人の両親ですか」。
イエスはお答えになった、
「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。
むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである。」

ヨハネ書 9:1-3 フランシスコ会訳

キリストは生まれつき目が見えない人について、弟子から尋ねられた際にこう答える。
この人が生まれつき目が見えないよう造られたのは、まさに、神の業がこの人のうちに現れるためだと。

すると、あなたはわたしにこう言うでしょう、
「それではなぜ、神は、なをも人間を咎めるのか。
誰が、神のみ旨に逆らうことができようか」。
ああ人よ、神に言い逆らうあなたはいったい何者ですか。
造られた物は造った者に向かって、
「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
陶工には、同じ粘土から、一つを尊いことに用いる器に、一つをありふれたことに用いる器に造る自由がないのでしょうか。
神は怒りを示し、その力を知らせようとお望みになりましたが、滅ぼされて当然の怒りの的である器を、大いなる寛容をもって耐え忍ばれました。
また、そうされたのは、栄光にあずからせようと前もって用意された憐れみの的である器に、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためでした。
この憐れみの的である器とは、ユダヤ人からだけではなく、異邦人からも召し出されたわたしたちのことです。

ロマ 9:19-24 フランシスコ会訳

パウロは四つの器について対比的に語る。
尊いことに用いる器、ありふれたことに用いる器、怒りの的である器、そして憐れみの的である器である。

造物主からみた作品である人間はそのようなものだ。そうパウロは語る。

わたしたちは、神の作品であり、わたしたちが歩むべき道として、神があらかじめ用意してくださった善い行いをするようにと、キリスト・イエスのうちに造られたのです。

エフェソ 2:10 フランシスコ会訳

では、憐れみの的である器とはどのようなものだろうか。
陶工から見て、憐れむ器とはどのようなものだろうか。

ところで、わたしたちは、このような宝を「土の器」の中に入れて持っています。
この上なく優れた力は、神のものであって、わたしたちに由来するものではないことが分かるためです。
わたしたちは四方八方から苦しめられますが、行き詰まりはしません。
途方に暮れますが、望みを失いはしません。
迫害されますが、見捨てられはしません。
打ち倒されますが、滅びはしません。
わたしたちは、いつもイエスの死に瀕した状態を体に帯びています。それはまた、イエスの命がこの体に現れるためでもあります。
実に、わたしたちは生きていますが、イエスの故に絶えず死の危険にさらされています。イエスの命が、わたしたちの死すべきこの身に現れるためです。

第二コリント 4:7-11 フランシスコ会訳

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