エフェソの信徒への手紙 6章/「奴隷たちよ」
・本記事は何を書くか
南北戦争時の南部諸州をはじめ、あらゆる奴隷制肯定論者が好んで引用してきた悪名高い本章の現代的意義を考え、擁護する。
・「当時の価値観だから?」
この聖句は奴隷たちを黙らせる口実として奴隷主どもに利用されてきた。丁度、"約束の地"に関する聖句がシオニズムに利用されてきたように。
出エジプト記には悪辣な王ファラオに虐待され、自由も生命も奪われていたユダヤ人たちがエジプトを脱出する様子が描かれている。
国無き民、ユダヤ人たちはモーセの死後、ヨシュアを指導者としてパレスチナへと集団移住するが当然ながらそこは無人の地などではなく、先住民たちが居住している。
ユダヤ人たちは先住のカナン人たちと戦い、虐殺し、虐殺され、奴隷にし、奴隷にされながら約束の地を征服していく。
ユダヤ人たちという社会集団はファラオという奴隷主からは解放された。が、人間が奴隷という存在を必要とする世の原理は残されたままである。
社会的、経済的弱者の集団が奴隷の身分から解放される。しかし、それでも奴隷がやるべき仕事は残る。奴隷、つまりは自由で尊厳ある人間がやるべきでないような仕事は残り続ける。
・「奴隷制はもはや存在しない?」
わたしは介護福祉士でありケアワーカーである。また同居の母が癌患者であるため家内労働の主たる担い手でもある。
現代においては奴隷制は存在しないとするのが建前ではある。が、技能実習生、不法移民、経済的社会的に劣位にあるマイノリティに奴隷の役割を代替えさせ続けているだけなのではないか。
ケアワーカーという言葉があるが、これは言い換えるならば家内奴隷である。
彼らが福祉国家や富裕層という主人から与えられる役割は基本的に「風とともに去りぬ」に登場した黒人乳母のものと変わるものではない。
薔薇という花をなんと呼ぼうが香りはそのままであるように、奴隷的な労働をなんと呼ぼうがそこに漂う臭いはそのままである。
奴隷主のファラオを100回海に沈めようと、奴隷として虐待されていた社会集団が5000回エジプトを脱出しようと、少なくとも幼児、障害者、病人、老人等といったケアを必要とする人間が存在する限り、社会は奴隷制の問題から逃れられないのではないか。
・神を待ち望む
福祉国家はイデオロギー上の理由から、富裕層は単なる必要性の問題からケアワーカーを必要とする。
幼児を、障害者を、病人を、老人をケアする人々が必要とされなくなることは世の終わりまで無いだろう。
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