ガラテヤの信徒への手紙 5章

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。


だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
‭‭ガラテヤの信徒への手紙‬ ‭5‬:‭1‬




エスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。


「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。


あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」


すると、彼らは言った。


「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。


『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」


エスはお答えになった。


「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭8‬:‭31‬-‭34‬




パウロは、偶像崇拝の異教徒として神でないものに仕えていた、つまり奴隷として生活していたガラテヤ人たちが、今度は律法主義という生き方の奴隷になろうとしていると警告する。




行いか、信仰かという対比でパウロ書簡とヤコブの手紙はよく比較されるが、そのヤコブの手紙でも律法を全て守ることは不可能という前提はパウロ書簡と共有されている。




キリストの福音は罪への隷属、律法主義への隷属から解放する自由の律法だが、その自由は無論、あらゆる行いや思いに対する自由を意味しない。




この隣人愛と神への愛という二つの律法をどのようにして生きられるか。


それは神からの賜物である聖霊の導きに従うことによってであろう。


:「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
‭‭ガラテヤの信徒への手紙‬ ‭4‬:‭8‬


:もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。


しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。


律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。
‭‭ヤコブの手紙‬ ‭2‬:‭8‬-‭10‬


:自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。
‭‭ヤコブの手紙‬ ‭2‬:‭12‬


:兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。


律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
‭‭ガラテヤの信徒への手紙‬ ‭5‬:‭13‬-‭14‬


:肉の業は明らかです。


それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。


以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。


これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。


キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。


わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。
‭‭ガラテヤの信徒への手紙‬ ‭5‬:‭19‬-‭25‬


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?