列王記下18章/目に見える"神"、目に見えない神
列王記下において北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国を滅ぼしかけたアッシリア王はいわば"目に見える神"として描かれているのではないか。
前々章で南ユダ王アハズはアッシリア王という人間にこのように縋る。
つまり、わたしはアッシリア王の"僕"であり、"子"であり、彼は敵の手から"わたしを救い出して"くれる存在である。
またアハズ王は祭祀儀礼も律法に依らず、アッシリア式に変更する(同 10-18節)。
本章である。
南ユダ王国はアッシリアに平伏していたが、新王ヒゼキヤはアッシリア支配に抵抗したため敵対関係となる。
アッシリアは大軍を率いて南ユダ王国を攻める。アッシリア帝国の前に小国、南ユダは滅亡の危機にある。
アッシリア王は使者を通じて南ユダ王国にこのように告げる。
つまり、アッシリア王は民を捕囚という形で"乳と蜜の流れる土地(申命記 6:3)"ならぬ、パンと葡萄畑の土地、オリーブと新鮮な油と蜜の地に導きのぼり、アッシリア王という"主"に従うことにより、「命を得ることができる(参照:レビ 18:5)」と称する存在に描かれている。
目に見えるアッシリア王という"主"は強大である。
アッシリアは数多の国々を滅ぼした。数多の国々には当然数多の神々が居たが、その"神"はどこに居たのか。
どの"神"もアッシリアから自国を救えなかったのではないのか。
だとすれば、なぜ"主"があなた方を救えると思うのか。
キリストの人生は古代イスラエルの歴史と重なっている。
モーセが幼児を殺すファラオから逃れたようにキリストもヘロデからエジプトに逃れ
イスラエルがエジプトからカナンに移住したようにキリストもヘロデの死後イスラエルに戻り
イスラエルが40年、荒野を彷徨ったようにキリストも荒野で40日断食し、誘惑を受け
モーセが山で律法を民に告げたように、キリストも山上で説教し
イスラエルが侮辱を受け、滅ぼされ、帰還したように、キリストも侮辱を受け、死に、復活する。
旧約聖書が現代でも重要なのは、キリストの生き方が旧約の体現であり完成だからではないか。