サムエル記下 3章
サムエル記はサウル家からダビデ家に王権が移ったのは神意による。との立場から記された歴史書である。
本章を読み、聖書における歴史とは何か。について考えた。
歴史とは、また歴史を動かす原動力とは一体どのようなものであると聖書は書いているのだろうか。
1.歴史を動かすものは偶然である
人間の人生や歴史を動かすものは偶然である。
わたしたちは自分の人生や歴史を振り返ってみた際に何らかの意味を見出すが、それは壁の染みを見て「人の顔に見える」というのと同じで、単なる偶然の結果を何らかの意味をもたらすものと解釈しているに過ぎない。
聖書においてこの立場から書かれた物語は少ないが、だとしてもそう解釈可能な聖句がないわけではない。
2.歴史を動かすのは神である
この聖句はたとえ話や比喩表現ではなく字義通りの意味であり、人間の自由意志どころか物理法則、鳥獣の本能に至るまで現在も神の支配下にある。
当然、歴史も人生も神の計画通りにしか進みはしない。
この立場から書かれた物語や聖句は1.の立場と異なり多い。ロマ書8章等参照。
3.人には自由意志があり、歴史を動かす原動力も当然ながら人でしかない。
そもそも旧約のモーセの律法も、新約のキリストの律法も人間に自由意志があることを前提としている。
人に仮に自由意志が存在しないならばそのような掟に何ら意味がないからである。掟が与えられたということが人に自由意志があることを証明する。
4.人が成す歴史に神は時折介入する
出エジプト記7章から始まるエジプトにおける災いにおいて
「ファラオは心を頑なにした」
「主は、ファラオの心を頑なにした」
がほぼ同数回用いられている。
人は自由意志を持つがその選択の結果、人の内心に神が介入することもある。
サムエル記においてもサウルやダビデに神の霊が臨んだという形でこの種の自由意志、歴史観は書かれている。
5.そもそも聖書に書かれている"歴史"は史学的視点ではなく、救済の歴史を描いている。
聖書には歴史書が数多く含まれる。
ユダヤ教徒ではないクリスチャンが旧約聖書の歴史書を読む際、なぜそれを読むのかというとそこにキリストを証しする何かが含まれる、つまりは予型があると信じ読むのである。
新約の使徒言行録、そして旧約の歴史書などは史学的な歴史を記したものではないし、またわたしたちもそうは読まない。
そこに記されたものは旧約ならばイスラエル、新約ならば新しいイスラエルである教会が救済であるキリストに至る道としての歴史。
つまりは救済史が書かれているからである。