列王記下25章/目に見える王、目に見えない王

その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、 都の一角が破られた。
カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。
王はアラバに向かって行った。
カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒れ地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。

列王記下 25:3-5 新共同訳

南ユダ王国、そしてエルサレムはバビロンにより滅ぼされ、捕囚が始まる。
これも悲劇的だが、その前に起きた出来事。
つまりは、民を導く指導者であるはずの王が、敵国に城壁を破られた際に民を置き去りにして逃げ出すような存在であることも、また、悲劇的である。

これが、神に選ばれたダビデの血をひく王だろうか?

「こうして、あなたたちは王の奴隷となる。
その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。
しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。
「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。
我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」

サムエル記上 8:17-20 新共同訳

サムエル記上8章にはイスラエルの民が王を求めるさまが記述されている。
民は言う。他の全ての国と同じように、目に見えない神ではなく、目に見える王が裁きを行い
目に見えない神ではなく、目に見える王が敵国と戦わねばならないのだ、と。

わたしたちも他の全ての国と同じように、わたしたちも他の全ての共同体と同じように、目に見えるものに治められる必要があるのだ。
イスラエルの民はそのように言う。

しかし、そのような王が真の王だろうか?

「わたしは良い羊飼いである。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

ヨハネによる福音書 10:11-13 新共同訳

むしろ、真の王とは敵国が都の城門を破った際に民を置き去りにして見捨てる者ではなく
置き去りにされた羊を探しに行くような方ではないだろうか。

もちろん、民のために命を捨てる王に治められた国はこの世にはあり得ないだろう。
だからこそ、神の国は目に見えないのではないか。

いいなと思ったら応援しよう!