列王記下25章/目に見える王、目に見えない王
南ユダ王国、そしてエルサレムはバビロンにより滅ぼされ、捕囚が始まる。
これも悲劇的だが、その前に起きた出来事。
つまりは、民を導く指導者であるはずの王が、敵国に城壁を破られた際に民を置き去りにして逃げ出すような存在であることも、また、悲劇的である。
これが、神に選ばれたダビデの血をひく王だろうか?
サムエル記上8章にはイスラエルの民が王を求めるさまが記述されている。
民は言う。他の全ての国と同じように、目に見えない神ではなく、目に見える王が裁きを行い
目に見えない神ではなく、目に見える王が敵国と戦わねばならないのだ、と。
わたしたちも他の全ての国と同じように、わたしたちも他の全ての共同体と同じように、目に見えるものに治められる必要があるのだ。
イスラエルの民はそのように言う。
しかし、そのような王が真の王だろうか?
むしろ、真の王とは敵国が都の城門を破った際に民を置き去りにして見捨てる者ではなく
置き去りにされた羊を探しに行くような方ではないだろうか。
もちろん、民のために命を捨てる王に治められた国はこの世にはあり得ないだろう。
だからこそ、神の国は目に見えないのではないか。