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サムエル記下 6章/ダビデ夫妻に見る主への向き合い方の違い

・本章を一言で説明すると

ダビデ王がキルヤト・エアリム、別名バアレ・ユダから契約の櫃をエルサレムに運び上げるが、礼拝の仕方を巡って妻と不仲になる。

・あらすじ

政治的に国家を統一したダビデは宗教的にもイスラエルを統一するためか、3万の兵士と共にその契約の櫃をエルサレムに運び上げようとする。
契約の櫃を載せた車を牛に牽かせ、音楽を奏でながら意気揚々とエルサレムに向かうダビデ一行であったが、旅の途中でよろめいた箱を手で押さえたウザが神に打たれて死んだことに恐怖する。

ダビデは畏れのあまり契約の櫃をガト人オベド・エドムに託すが、彼が主からの祝福を受けて豊かになっていると知り再度契約の櫃をエルサレムに移送しようとする。
ただし、今回は牛に牽かせるのではなく、人が担いで(13節)。

再び契約の櫃を運び上げるダビデ一行。今回は神の怒りが下ることもなく無事にエルサレムに辿り着く。
ダビデも、住民も大歓喜であり、ダビデは激しく踊り過ぎたためか裸になるほどである。
自分の妻、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろし心の中で蔑んでいるとも知らずに。

ダビデは無事にエルサレムの天幕へと主の契約の櫃を運び上げ、それを祝して群衆たちにお菓子等を振る舞う。彼らが家路につく中、ダビデ家には諍いが起きている。
歓喜の中、主の前で裸になるほど激しく踊ったダビデを揶揄する妻と、それに言い返すダビデ。

1.契約の櫃、つまりは主にどう向き合うか

本章にはさまざまな人物が登場するが、個人的に気になった点はダビデ夫妻の対比的な主への向き合い方である。
彼らはどのように「ケルビムの上に座す万軍の主の御名によってその名を呼ばれる神の箱」(2節)に向き合ったか。

2.ダビデの妻であるサウルの娘ミカル

契約の櫃という荒ぶる神の臨在の証明を無事にエルサレムに運び上げ、ダビデ一行は大いに喜ぶ。
かつて自分の父であるサウル王の追手から命を救うため、愛する夫を窓から吊り下ろしたミカルは(サムエル記上 19章)、契約の櫃の前で裸になるほど跳ね回り喜びを現すダビデを窓から見下ろし、蔑む。

サムエル記上19章では愛し合う二人が引き裂かれることを暗示していた窓と地上の距離が、本章では神に対する態度の違いという心理的距離を暗示しているのではないか。

著者は「サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた」(23‬節)と本章を結んでいるため、ダビデの態度が正しいとの立場から本章は書かれている。


3.ダビデ

ダビデの契約の櫃に対する態度は冷静な妻と対照的である。
最初に契約の櫃を運び上げる際は音楽を奏でながら揚々と旅をし、その運搬方法が律法に違反していたからか(民数記 3:30-31、7:9)道中で神の怒りが下ると、今度は畏れのあまりガト人オベド・エドムの元に神の箱をある意味押し付ける。
しかし、オベド・エドムが神に祝福されていると知るや否や再度契約の櫃をエルサレムに運び上げようとする。今度は牛車に乗せて運ぶのではなく、レビ人が担いで(歴代誌上 15:1-2)。

契約の櫃を担いだレビ人たちが六歩歩く、今度は大丈夫そうだと思ったのか、牛の生贄を主に捧げ…そして喜び叫び、力の限り踊り、音楽を奏でながらエルサレムへと辿り着く。

エルサレムに辿り着いたあともダビデの喜びは終わらない。こんなに嬉しいことは皆にもお裾分けせねばならない。群衆にも兵士にもパンとお菓子を大盤振る舞いする。

4.ペトロ

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。
シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。‬

‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭21‬:‭7‬ 新共同訳

復活したイエスが漁をしている弟子たちの前に現れた際、ペトロは裸同然の姿を恥じて上着をまとい湖に飛び込む。
これは使徒ペトロの人となりを一番よく伝えるエピソードと個人的には思える。そしてこの人となりは本章も伝えるダビデのそれとどこか重なっているように思える。

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