士師記11章
「ギレアドの人エフタは、勇者であった。
彼は遊女の子で、父親はギレアドである。
エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に、身を落ち着けた。
そのエフタのもとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった。
彼らはエフタに言った。
「帰って来てください。わたしたちの指揮官になっていただければ、わたしたちもアンモンの人々と戦えます。」
エフタはギレアドの長老たちに言った。
「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか。」
士師記 11:1, 3, 6-7
「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。
「この人は、大工ではないか。
マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。」
マルコによる福音書 6:2-3
略奪婚の風習がある異邦人ヒビ人ハモルの子シケム(創世記34章)との混血であるアビメレクのエピソードの次は、売春婦の息子であるエフタのエピソード。
シケムの長老たちが「バアル・ベリトの神殿から銀七十をとってアビメレクに渡すと、彼はそれで命知らずのならず者を数名雇い入れ、自分に従わせ」(士師記 9:4)アビメレクは自分の兄弟を殺し、後継者争いに勝利する。
時代が下り、神に選ばれた士師であり売春婦の息子であるエフタが登場するが、彼の元にも同じくならず者が集まっており、人々は異邦人との戦いに彼らの暴力を必要とする。
アビメレクもエフタも中心というよりは周辺の人間であり、当然のように暴力が身近にあり、暴力と近しく生きる。
また、エフタは異邦人との戦いの際にかけた誓願により主への捧げ物として我が娘を焼き尽くす。
ここでは創世記22章のアブラハムとイサクのエピソードとは違い、いけにえとして捧げる前に天使が介入するようなことはなく、娘はエフタの誓い通りに捧げられる。
なぜ神はエフタの娘がいけにえとして捧げられる前に介入しなかったのだろうか?
同じようなテーマやエピソードが繰り返し、視点を変えて、あるいは韻を踏んで、またはイメージの持つ意味を反転させて語られることが聖書には多い。
あるいは聖書だけではなく、人間、または歴史というものが単線的ではなく円環的なものだということかもしれない。