ガラテヤの信徒への手紙 3章
信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
ガラテヤの信徒への手紙 3:23-25
それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。」
ルカによる福音書 16:16-17
人は何によって義とされるかについて、熱意を込めてパウロは語る。
律法という膨大な正しい振る舞いの体系を常に守り続けることで人が義とされるのであれば、それを行える者など誰も居ないだろう。
人が義とされるために緻密な正しい振る舞いの体系を常に守り続けることが要請されるのであれば、その正しさとは人を「監視」し、「閉じ込める」ものでしか無いのではないか。
それがどのような正しさの振る舞いの体系であれ、絶えずその体系を守る者など誰も居ないのではないか。
罪人である人間が義を生きるのは、自らの力では無く、内に働く御言葉、あるいはキリストの霊による導き無しでは不可能ではないか。
:イエスは言われた。
「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」
ルカによる福音書 11:46
:ガラテヤ 3:23
:律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
ガラテヤの信徒への手紙 3:10
:だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。
この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
ヤコブの手紙 1:21-22
:生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙 2:20