42歳、大学卒業しました(9/23追記)
今年はパーティーしない。
誕生日プレゼントもいらない。
その代わり、僕の話を聞いて欲しい。
誕生日の朝から書き始めたのに、もう夕暮れ。結果、9,000文字超…9/23時点でPIVOTの『社長改造』配信が開始され、そこにまつわる部分を追記したので、もっと増えて12,000文字を超える大ボリュームになってしまった。
本当は全文めっちゃ読んでほしいけど、残念ながら読む時間が無いという人は今すぐこのページから参加登録だけして欲しい。お願いします。
さて、気を取り直して本題に入ろう。
ちょっと前の話だが、半年ほど大学生をやっていました。
FRAGMENT UNIVERSITY | 非言語マーケティング 藤原ヒロシの特殊講義
この告知を見つけた時の僕の気持ちをどう言語化したらいいのか。
藤原ヒロシ的には、あんまり言語化しなくていいっていう結論なんだけどあえてやってみる。
例えば、17歳の頃に夢中だったバンド(とっくに解散済み)が突如、再結成を発表したような。
例えば、昔買えなかったSupremeの迷彩ボックスロゴが、18年の時を経て復刻すると知った時のような。
いずれにせよ、至極シンプルな言葉で表現するならばとにかく "めちゃヤバい" 状況ってことだけ感じてもらえたらいい。
90年代から00年代に青春を生きた者にとって、藤原ヒロシという存在は何年経ってもついてまわる、移動祝祭日のようなものだと僕は思う。
そんな藤原ヒロシが大学教授として講義する千載一遇のチャンス、なんとしても飛び込まなくてはいけないと考えた。だけど、裏原宿・スケートカルチャー・ナイトクラビングを青春の糧にしてきた、顔も名前も知らない無数のライバルの存在をひしひしと感じる。
にエントリーフォームの少ない文字数に、自分の半生を詰め込む為にこれまで明かしていなかった "あること" をぶち込んだ。
ガクトがカタカナなのは、藤原ヒロシの影響
忘れもしない15歳の頃、母親と病院に行く途中の本屋で「待ち時間長いから雑誌でも買いなよ」と言われ、なんとなく手に取ったキムタクが表紙のメンズノンノ。パラパラと誌面をめくっていくと、後ろのほうに突如現れる異質な雰囲気のページ。
DJ?クリエイター?一体、この人は何なんだ?
初めて見る肩書きや、知らないブランド、ヒップホップのレコードの名前が並ぶテキストを僕は夢中で追いかけた。
ビートルズやセックスピストルズでは感じることの無かった衝撃を、僕は雑誌の最後のたった2ページにしっかり喰らっちまったこと、それによってその後の人生がすっかり変わってしまったことを言葉に体重をのせて書き殴った。
そしてガクトがカタカナな理由、諸説あるけど決定的なのは "藤原ヒロシ" に影響されてなんだってこともしっかり添えて。
メディアは誰かの人生を変えうるか?
↑
答えはもちろんYESだ。
1人目の証人は僕。いつでも入廷し証言する覚悟はできている。
15歳の中学生が病院の待合室で読んだメンズノンノが触媒のように僕の脳内に化学反応をもたらし、それまでボンヤリ生きてきた僕の人生が、ハッキリとその日始まったのを今でも鮮明に覚えているから。
「東京へ行こう」
静岡というのんびりした地方都市に住む10代の心の中に、確かな決意が宿り、僕は雑誌の編集者になりたいという夢を持つようになった。
結論から言えば、僕が今、雑誌の編集者をやっていないことはこのテキストを読んでいる人には明らかだろう。
僕は "動画クリエイター" という、なんとも如何わしい肩書きで世の中に出てしまったのだから。
雑誌編集者に憧れて
僕はメディアがやりたかった。
やりたかったはずなのに、会社はいつの間にか #動画マーケティング とか #SNS向けクリエイティブ みたいな文脈でそこそこ有名になってしまった。
起業した時の初期衝動はメディアがやりたくて、動画はその為に使われる新しい手段のひとつのはずだった。
起業初期の頃、ちょうど世の中では紙媒体の雑誌が「オンライン版もちゃんとやらなきゃいけないよね」という空気になり始めた頃だった。今からたった10年ほど前の話だ。
これも初めて書く話なのだが、僕は当時『Pen』という雑誌と『Hanako』という雑誌のオンライン版を立ち上げるコンサルティングをやっていた。
ちなみに、その時の『Pen』の担当者が現・編集長である石川 康太、『Hanako』の担当者が2021年末に『Brutus』の編集長になった田島 朗だ。紙の編集でトップランカーに上り詰めるような方々との仕事はとてもエキサイティングだったが、まぁ僕自身はどこまでいってもオンライン版をやる為にノウハウを提供する "裏方" に過ぎなかった。
"動画の教祖" 誕生
自分が、発信の主体となって、発行人としてメディアをやりたい。
その為に、資金調達し、仲間を集め、来る日も来る日も動画を作って作って作りまくった。
でも事業としてメディアを成立させていくのは、とんでもなく大変なことだった。減っていく預金残高。幾度となく訪れる倒産の危機。リストラ。オフィス解約。
周りのキラキラしたスタートアップと違って、創業者から見ても株主から見ても、どこからどう見たって紛れも無いドロドロの泥舟そのものだった。
社員の生活どころか自分の食い扶持すらこのままでは守れない。
やりたいことと、得意なことを天秤にかけ、後者をとった。
奇しくも、動画で広告を作ることが得意だった。
いよいよ動画というものが何やら世の中を変えていきそうな機運が出てきたそのタイミングで、僕は壮大なポジショントークを展開する。
"映像" と "動画" の違いだ。
従来の "映像" をそのままYouTubeに流していても成果は出ない。
最適化した "動画" を作るべきだという僕の鼻息荒めな説法に、徐々に共感してくれる人たちが現れてきた。
Smartphone
Speed
Silent
三つの "S" が動画においては重要だと主張し、スマートフォンの縦型の画面に、時間あたりの情報密度を濃くするスピード感で、サイレント映画のように無音声でも内容が分かる編集をする。
動画でメディアにトライしていた長いトンネルの中で培った知見をフル活用し、僕らは動画広告業界の中で存在感を示していった。
ロン毛を振り乱しながら動画の全てを知っているかのように語る僕の姿に、ちょうど動画に興味を持ち始めた幻冬舎・箕輪 厚介が、当時News Picksを率いていた佐々木 紀彦を連れてワンメディアのオフィスにやってきた。
このあとの顛末は知っている人も多いだろう。
2人のおかげで急激にメディア上で露出が増えた僕は、今から5年前の2018年に『動画2.0』を執筆することになる。
本の帯には、髪を風になびかせながらモナリザのように遠くを見つめる僕の写真と「さあ、世界を激変させる動画ビジネスの大波に乗れ!」という大言壮語なコピーが並ぶ。
こうして、僕は "動画の教祖" と呼ばれるようになったのだ。
あれから5年、世界は動画化したか?
今では親友になった箕輪は当時、世の中を煽って煽って煽りまくっていた。まさに『死ぬこと以外かすり傷』の時代である。
若者に対し「早くこっちの世界に来い」とアジテーションする箕輪は僕の本にもこんな紹介文をつけている。
本が出版された2018年から5年後の2023年。
世界のあらゆるものは、それはもうきっちり動画化した。
だけどそれは、僕のおかげとかではなく、ただそういう方向の重力が存在して世界がそっちに落ちていっただけに過ぎない。
再び訪れるピンチ、そして事業の再成長
思い出したくも無い2020年から続いたあの異常事態も、この変化を後押ししている。本の出版後、上り調子だったワンメディアもあらゆる動画制作をストップせざるを得ない状況に苦しんだ。
この頃のストレス過多、そしてちょっと精神的にやられている様子がきっちりnoteに残っていて読み返すと切なくも面白い。
そんな状況をなんとか抜け出す為に、TikTokクリエイターと一緒に動画を作るようになり、現・取締役COOである余頃 沙貴がショート動画事業を垂直立ち上げすることによって再び急成長していった。彼女は東京大学文科一類卒業からの新卒LINEという、絵に描いたようなバリバリのエリート街道を地で行く感じなのに何の因果かワンメディアに転職してきて、この圧倒的な成果をたった三年足らずで出している。
余頃半端ないって。そんなんできひんやん普通。
まぁいずれにせよ、今回のピンチは社長である僕が頑張ったことによって脱出したのではなく、余頃を筆頭にメンバーのみんながチャレンジし、やり切った結果だった。
社長の仕事が、どこにも無い
起業の世界では、創業者自らが動いている部分を如何に他のメンバーに任せていくか?ということが常に問われている。それができないと、会社はただの個人商店であり、スケールしないからだ。
ほとんどの会社が、この権限委譲の部分でつまづくらしい。しかしワンメディアにおいては、外的なショックによって意図せずともそうなってしまった。当社のショート動画事業は、新しい世代の仲間たちによって立ち上げられ、それは僕がいてもいなくてもしっかりと回る、経営者としては理想的な状態になっていた。
最前線で自ら切り込んでいくリーダー的なスタイルから、後衛でみんなをバックアップするサポーターになるタイミングなのかと思い、まず制作業務から離れ、次に営業業務から離れ、そして自分は人事や管理業務にコミットしようと考えた。だけどそれも上手くできなかった。
そこで割り切ってサボれるほど、僕は要領良くもなかった。自分の存在意義が無いのでは?と不安になり、悩み始めてしまったのだ。
親友であるGO・三浦 崇宏にはこんな風に言われた。
「だって、明石さんはBRUTUSとかに出てくる文化的なクリエイターになりたかったはずなのに、経営者っぽい仕事ができるわけないじゃん」
どうしようもないほど、ストレートに核心突いてくるじゃんね。
"癖強友の会" が僕を支えてくれた
さて前述の箕輪や三浦、そしてナレッジワーク・麻野 耕司を加えた4人で毎月集まって飲んでいる。
全員、NewsPicksによってビジネス芸人化し、本出したりメディア出演したりするけど、色々思い悩むことが多くて誰かに聞いてもらいたいアラフォーの集まりだ。
※癖強友の会という名前の由来は、とある人に「わー、癖強著名人の皆さんとお会いできるなんて光栄ですぅー」って言われたからだとかなんとか
誰かが壁にぶち当たってる時は、他のみんなで支えるというスタイルを何年か続けてきた。
誰かが文春に書かれた時も、誰かが無呼吸症候群で苦しんでる時も、誰かが篠田麻里子との熱愛を報道されてる時も、とにかく支え合ってきた。
2023年夏に僕の母親が亡くなった時、親友たちはわざわざ静岡まで来て火葬が終わるまで付き添ってくれた。マジで有り難くて涙が止まらなかった。
経営者は孤独だが、それ故に孤独な経営者同士は、学生時代よりも強い友情で結ばれることもあるのだと僕は思う。人生の節目に彼らと一緒にいれて良かったとこれから何度でも思い返すことがあるのだろう。
例の "社長の仕事が無い問題" も当然、この4人で話すことになる。
組織論ならば麻野がプロフェッショナル中のプロフェッショナルだ。
そんな彼が、たまに気が向いた時にやっているマネジメント講座があって、正直僕だとうまく吸収しきれないかも?と思って、余頃を参加させることにした。
余頃が講座から持ち帰ってきたインサイトは凄まじかった。
これなら何とかなるかもしれない。このやり方に賭けるしかない。
僕はここぞとばかりにDMで麻野にめちゃくちゃ質問しまくった。
創業者である僕、ビジネス領域を統括する余頃と、クリエイティブ領域を統括する香川。ピンチの最中にいた時はなかなかこの3人で話す機会も取れていなかったことにようやく気付く。
3人で何度も話し合い "麻野式" で会社のミッション・スタイルを根本から見直し、再度定義していくことに決めた。
とはいえ、創業から丸10年近い時を迎えようとしていた会社のミッションを見直すという作業は、控えめに言っても困難の連続だった。
世の中には「やれば終わる」仕事と「納得しないと終わらない」仕事が存在するが、ミッション構築というのはまさに後者の最上位に位置するような仕事である。なんせ、僕の一存で決めても意味が無い。10年近い歳月の中で、会社を人生の一部としてくれている仲間は増え、彼女 / 彼等も一緒に熱狂できるものでなければ意味が無いからだ。
ようやく、冒頭のフラグメント大学に話は戻る
創業者として、社長として、答えが出せない日々の中で「藤原ヒロシが大学をやる」というニュースをキャッチした。
嘘だろ?
10年前の起業のとき…なんていう過去を飛び越して15歳の頃の僕の原点オブ原点、人生の本当の根っこのところを振り返るチャンスがこんな形でやってくるなんて。
これを天啓と言わずしてなんと言おう。
エントリーフォームに書いた文章は、間違いなく2023年で一番気合の入った言葉たちだった。
熱意が通じたのか、合格者わずか50人という狭き門を突破し、授業が始まるその日を待った。
毎回、開始時間の30分前には教室の前に並び、藤原教授が話す席の前に陣取った。20年ほど前に大学に通っていた頃には、そんな勉強熱心な学生ムーブ、これまで一度もしたことも無いというのに。
いわばこれは、僕の人生の折り返し地点に神様がくれた答え合わせのようなものだと思ったから。真剣にやらないことは、自分の人生の価値を否定するのと同じなんだと僕は考えたんだ。
授業でどんなことが語られたのかの具体は公開することができない決まりなので、残念ながらここには書けない。
だけど「メディアは誰かの人生を変えうるか?」という問いには確実に答えが出た。そこには僕と同様、メディアによって人生を変えられた同級生たちがたくさんいたからだ。
僕はずっと、SNSや動画によって個人がそのままメディアになる(インフルエンサー)時代が来たと主張していたが、授業を通して考えを180度改めた。個人がブログやインスタやYouTubeで発信する内容はあくまでも情報であり、そこにある種の編集意図を持った第三者が介在することによってメディアになる。
かつてメディア事業に取り組み諦めた僕にとって、フラグメント大学で学んだことはずっと悩み続けたことから抜け出す為の糸口になった。
そしてこう思った。
やっぱり、僕はメディアがやりたいんだ。
<ここから追記パート、始まります>
さて、フラグメント大学を通い終えた僕の中に、メディアをやりたいという気持ちが小さな種火のように灯った。しかし種火は種火。そのままにしておいたら消えていってしまう類のものだ。
そこからどんな風に、その想いが大きくなっていたのか?ということの裏側にはPIVOTの『社長改造』というドキュメンタリー番組の存在が重要な役割を果たした。
9/22の夜に公開されてから、もう大変な反響でスマホの通知が鳴り止まない。これが登録者数200万を超えるYouTubeチャンネルに特集されるということか。
『社長改造』という色々と難しい番組
もともと、僕はこの番組のコメンテーターとして出演していた。
改造される社長たちの事情通、という文字面そのままの胡散臭いポジションで番組の構造を見ていると「ああ、これは色々と難しいな」と思わされることが多かった。
とにかく時間がかかる
まずはこれだろう。30日で社長を改造、と銘打ってるものの実際は3〜4ヶ月かかっている。通常のPIVOTのコンテンツは、会議室ほどの小さいスタジオで90分ほどで収録が終わるのに対して、非常に足の長いプロジェクトになっていて、当然だがその分コストもかかるし増産もできない=YouTubeのコンテンツには向いていない番組ということになる。出演してくれる社長がいない
とにかく全てをさらけ出さないと面白くならないので、事業戦略の深い部分やインナーの会議、社員との対話はもちろん、友人やプライベートの部分まで踏み込み「作っていない本当の自分」を見せる必要がある。前項の多大なコストをPIVOTが割く意味がありつつ、それを引き受けるメリットのある社長というのは世の中見渡すと全然いない。だから初回のゲストはPIVOTの佐々木紀彦でやるしかなかったわけだ。改造のドラマを作りづらい
基本的にドキュメンタリーというのは「何かが始まってから、何かが終わるまで」を記録し、編集することによって作られる。素材としての社長の素の部分を見せつつ、でもストーリーとしては確かに改造された感じを出さなくてはならないのだが、人間も組織も、そんな一朝一夕で変わらないのでカタルシスを出しづらい。佐々木紀彦の場合は、本人が変わったというか変わらない本人を周りが清濁併せ吞む感じで受け入れる、というところにドキドキハラハラ感があり奇跡的にいい感じに成立していたが、残念ながらそれは再現性が無いドラマの作り方だった。
管理部門が全員いなくなり、藁にもすがるような気持ちで出演意思を表明
というわけで『社長改造』は佐々木紀彦、黄皓のあとに続く出演者がおらず、まさにハンターハンター並みの連載ペースとなっていた。
成長していく事業とは裏腹、僕らはバックオフィスに悩んでいた。シンプルにメンバーが定着せず、新規の採用がエージェント経由であってもうまくいかないという状態。減りつつ / 増えないのだから、小学生でも結果はわかる。それは管理部門全てがゼロになる、ということだ。
心当たりをあげれば、それは色々とある。
例えば、メンバーの仕事を適切に評価し僕や他の部門に対してアピールできるようなマネージャーの不在であったり、当社でキャリアアップしていく道筋が提示が不十分だったり、そういった枝葉の話というのはいくらでも列挙していけるだろう。
だが、それらは根っこの部分として社長である僕の身から出たサビであり、それは即ち、僕が変わらなければこの状況を打開することもできないことを意味していた。
そうして、藁にもすがるような気持ちでPIVOTにメッセージを送ったのだ。
次の北極星はどこだ?
一方、余頃は「そもそも今の事業内容に適したミッション・スタイルが無いから組織がまとまらないのでは」と考えていた。
『社長改造』配信に合わせて余頃が公開した、渾身の14,000文字超にも及ぶnoteの中にこんな一節がある。
「次なる北極星を見失っている状態」というのは社長からするとかなり辛い諫言である。でも突かれて思わず唸ってしまうような痛い部分にこそ、その人の本質があるというのは取材のプロにとっては常識だ。つまり、ミッション・スタイルの言語化は僕の問題の根っこと確実につながっているのだろう。
そこからの会社のミッション・スタイルを考えていく苦難のストーリーについては以下の余頃の大長編noteを読んでいただきたい。マジ近道とかなくて、とにかく大変なんだけど、同じ悩みに直面してる人には役に立つと思うから。
種火を燃え上がらせるには外からの空気が必要(追記パートの終わり)
フラグメント大学で自分の中に灯った小さな種火があり、並行して、ミッション・スタイルを策定するプロセスの中で自分が本当にやりたいことは何なのか?を考える日々があり、そして管理部門が全員いなくなるという突発的なショックがあった。
それらの支流がまとまって一本の大きな本流となるような形で『社長改造』へのチャレンジへとつながっていったのでは?と今では思う。
焚き火が大好きで、年に数回は野山で薪を割り、火を起こしている。
ちょっとやそっとのことでは消えない大炎を起こすのに必要なことを要素分解してみよう。
スターター、着火剤、薪のコンディション、組み上げ方、いくつかあるが、誰もが口を揃えて最も重要であると言うのは「空気」だろう。
科学的には気体が燃焼することによって炎は発生するとされている。種火が灯っても、そこに空気が送られなければ熱が蓄積されるだけで炎になることは無い。炎にならなければ、いずれ種火は誰にも知られないまま静かに消え去ってしまう。
今回、PIVOTの『社長改造』という番組が、僕らの組織に外からの空気を送る役割を果たしてくれたからこそ、小さな種火が大きな炎へと変化したように思う。そのあたりは9/29に公開される後編をお楽しみにしておいて欲しい。冗談抜きで、焚き火の上に虹がかかります。何言ってるのかよくわからないだろうけど本当にそうなんだもん。
既にYouTubeのコメント欄や、Xで様々な感想や叱咤激励をいただいている。全部、読ませていただいてます。本当にありがとうございます。
(ここで追記パート終わり、長っ!)
メディアを通してムーブメントを起こす
かつて「動画産業革命を起こす」を掲げて起業した。
あれから10年がたって、その革命は成し遂げられた。でもそれは僕とは関係なく、時代の変化と共に現れた新しい職業 ―YouTuber、ライバー、ストリーマー、そしてインフルエンサーと呼ばれるSNSを通して社会に影響を与えるクリエイター達によって、それは達成された。
“動画” というものが当たり前に普及したこの世界で、僕らは何を価値として提供していくのか、メチャクチャ悩んだ。悩んで悩んで、色んな人に相談した。そうして出てきたキーワードが “ムーブメント” だった。
動画で起業し、僕らは何をしたかったのか?それは世の中を揺さぶるようなムーブメントを起こすことなのではないかと考えた。
これまでは広告の仕事を通してだったけれど、自分たちの仕掛けたコンテンツやメディアが、何らかのムーブメントを生んだ時が最も興奮するじゃないか?そんな話を余頃や香川と繰り返しした。
そして、その手段(メディア形態)は動画に限らず広がっていくはずだ。アナログからデジタル。テキストから動画。現実世界からメタヴァース。テクノロジーの進化と共にメディアの形は変化し続ける。
大きなテレビではなく、小さなスマートフォンのスクリーンから起きたムーブメントが、世の中全体を動かす時代。
「小さなひねりで大きなうねり」
藤原教授の言っていた言葉だ。
メディアを通してそれをやろう。メディアと広告は常に両輪で動くものだからこそ、この何年も広告をやってきたワンメディアならば、新しい時代のメディアビジネスができるはずだと僕は説いた。
結論、こうして半年以上の長い時間をかけてワンメディアのミッションはアップデートされた。
メディアを通してムーブメントを起こす。
それが僕らの新しいミッションだ。
フラグメント大学を起点に自分の人生を半分以上前から振り返り、なんでこれが好きなんだっけ?と自問自答し続けた結果だと思う。
動画産業革命が起きた後の世界で、僕らはメディアという手段にこだわりムーブメントを起こすことを目指すことを誓いあった。
ポッドキャストとの出会い
"個人の情報発信" と "メディア" を分つものは?という命題。
それを現時点で最も体現しているフォーマットは何なのかと考えた時に、ポッドキャストというキーワードが浮かんできた。
これは後述するイベントのプレスリリースに書いた僕の言葉だ。
いまポッドキャストにはコンテンツの原液としての可能性が満ち溢れている。"個人の時代" と言われて久しいが、その揺り戻しの波は着実に顕在化し始めている。だからこそ、ポッドキャストの"番組" という形態が持つ潜在的なパワーは凄まじいはずだ。
またワンメディアがこの数年取り組んできたショート動画を起点に、新しい若者カルチャーや人気アーティストも多く生まれている。
従来のメディアフォーマットではない、新しいSNSプラットフォームやメディアの活用によって時代は前進しているのだ。
新しいメディアを通して生み出された小さなひねりによって、大きなうねりが起こり始めている。
新しいメディアを考える日
だからこそ、ポッドキャスト領域をリードするキーパーソンや、ショート動画をブリッジに新しいエンタメを立ち上げている仕掛け人を呼んで、話したいなと思った。
他のビジネスカンファレンスが今ようやく、インフルエンサーが…ショート動画が…とか言い始めている。僕たちからしたら、周回遅れかと思うようなスピード感だ。
最前線を走るトップランナーでなければわからない、新時代を語る場所を作らなきゃいけない。
実はちょっと前まで会社の10周年記念イベントは、いつものようにシャンパンとテキーラで楽しくマイメンで騒げればいいのかなと思ってた。
でも、そういうのはもうやめた。
掲げたミッションに忠実に生きてみる時期があったっていいじゃないか?そうだろ?
NEW MEDIA DAY 2024 でお会いしましょう
というわけで、とんでもなく長くなりましたが、今年は誕生日パーティーもやらないし、プレゼントもいらない。
代わりに文字通り人生を賭けた渾身の、NEW MEDIA DAY 2024 の視聴登録をしてほしい。
僕がこれから10年でやっていこうと思ってることの片鱗を見届けてほしいから。
他のカンファレンスではまず見れない、すごいマッチアップになっている。
しかし、これが無料だなんて凄い。ワンメディア10周年記念イベントだからこその大盤振る舞い。マジで後悔はさせない。
以上、42歳になって少し大人になった明石からのお願いでした。
NEW MEDIA DAY 2024 事前エントリー受付中
ここから無料で視聴登録できます
当日、会場現地での観覧も抽選で当たります
最後にオマケ
ワンメディアを立ち上げる前によく遊びに行ってたバンコクに、およそ10年ぶりに旅行してきた。仕事は全く関係ない完全なるバカンス。
トゥクトゥクではなくGrabが走り、BTS(日本の山手線みたいな鉄道)は満員状態。麻布台ヒルズもびっくりするようなピカピカの商業施設が立ち並んでいた。
でもそんな中でも、変わらない街もあった。
タイ出身のBLACKPINKのLISAが、ミュージックビデオを撮影したチャイナタウンもそうだ。
この10年で変わるものもあれば、変わらないものもある。
当たり前かもしれないけど、たまには立ち止まって定点観測しないと見えない景色がある。この先に登らなきゃいけない山が高くて心が折れそうな時は、自分の歩いてきた道のりを振り返るといい。
随分遠いところまで歩んで来たって思えるから。せっかく人生折り返しまで生きてきたんだから、そんな束の間の振り返りをする時間くらい自分に許してあげなきゃ。
ほら、僕、今わりといい顔になってきてるんじゃない?自分を愛せるのは自分だけ。
生まれ変わるなら?また明石ガクトをやりたいよ。
※ここまで読んじゃったら流石に❤️くらいは押してってくれると嬉しいよ?あと、SNSで拡散してくれるともっと誕生日プレゼントって感じで最高です🎁